明末中國佛教の研究 272

先般の証悟は『楞厳経』を中心として、坐禅によって得た証悟であるが、今回のそれは『梵網経』を講義するうちに、証悟があらわれたのである。このことについて、智旭はその「梵網経合註縁起」の中に、次の如く説いている。

予由是、力疾敷演、不覺心華開發、義泉沸湧、急秉筆而随記之。(卍続六〇巻三一〇頁B)

換言すれば、智旭の『梵網合註』は、彼の証悟によって記録したものである。さらに彼が五十三歳で著した「自像賛」の中に述べられた彼の著書名において、事実上は『法華』・『般若』・『唯識』に関する重要著書があるにもかかわらず、挙げられているのはただ『楞厳経』と『梵網経』に関する著書だけであるという点をも勘案するとき、智旭は仏教信仰の実践にしても、教学思想にしても、いずれも『楞厳経』と『梵網経』に包囲された世界の人である。

浄土念仏としての証悟


この点において、智旭は二十五歳に坐禅によって証悟した後に、二十八歳の頃大病にかかり、その禅悟というものがなんの役にもたたないとして、浄土念仏の道を求めた(10)。三十九歳に教学の窮研によって証悟した後に、四十六歳の夏に、「両回の奇疾」にかかり、あらためてその慧解によって得たものも、生死の大事になんの役にもたたないと感じた(11)。この禅定と慧解の証悟について、彼五十六歳の冬、「寄銭牧齋」の書簡の中にも、再びこの感じを述べている。

今夏両番大病垂死、秋季閲蔵方竟、仲秋一病更甚。七晝夜不能坐臥、不能飲食、不可療治、無術分解。唯痛哭、稱佛菩薩名字、求生浄土而已。具縛凡夫、損己利人、人未必利、己之受害如此。平日實唯在心性上用力、尚不得力、况僅從文字上用力哉。出生死、成菩提、殊非易事。非丈室、誰知此實語也。(宗論五ノ二巻二〇頁)

これは、智旭が二十八歳に禅定の道から浄土念仏の道ヘ、四十六歳に慧解の道を反省して、