明末中國佛教の研究 274

三 浄土行者としての智旭


智旭の仏教生活の信仰行為は、既述の如く、禅・教・密・苦行など種々であったが、彼の最終的実践法門は浄土教の念仏信仰であった。智旭の浄土信仰を分析すれば、彼の一生を通じて、およそ四期に分けることができる。

第一に、二十二歳の頃は、「専志念仏」の初期の浄土行者である。

第二に、二十八歳からは、「有禅有浄」の禅宗的浄土行者。

第三に、三十一歳以後は、「棄禅修浄」・「窮研教眼」・「決意弘律」の教と律を中心とする実に持律者的浄土行者。

第四に、四十七歳の後には、ただ「決生極楽」・「念念求西方」の一筋の純粋的浄土行者である。以上の四分に従って、次に各々を検討すれば

まず、二十二歳頃、すでに「専志念仏」(1)の浄土行者になっていた智旭は、二十三歳の七月三十日、阿弥陀仏の本誓願行にならい、「四十八願」(2)という願文(3)を作った。これは弥陀信仰と地蔵信仰を混合させたものであり、四十八願は阿弥陀仏の因地本誓であるが、七月三十日の日は、中国における地蔵信仰の祭日である。伝説として知られる九華山の地蔵比丘は、新羅からきた具徳の高僧であって、彼は唐徳宗の貞元十年(七九四)七月三十日に入滅したといわれている(4)。したがって、中国の民間仏教においては、毎年その日に盂蘭盆会をするのであるが、智旭はこのような地蔵と弥陀の信仰に基づいて、その日に四十八願を発する題文を作ったのであると思われる。

ついで、二十八歳からの禅宗的浄土行者とは、次のようなことによる。