明末中國佛教の研究 275

「不捨本参」である「有禅有浄」(5)という浄土信仰は、雲棲祩宏(一五三五ー一六一五)の『阿弥陀経疏鈔』からヒントを得るものであるが、祩宏は念仏の浄土教を華厳五教の中に、正属頓教しかも兼通終円の二教と判じている。後の智旭には、この教判に対する不満な意見がみられ、さらにその「不捨本参」という念仏思想にも、激しい反論を加えた(6)ので、いうまでもなくこの二十八歳の時代の浄土思想は、智旭自身充分に納得のゆくものではなかったといえるであろう。

また、三十一歳以後、持律者的浄土行者としての智旭の思想は、浄土というよりむしろ天台宗に関するものである。これについて、彼の「阿弥陀経要解跋」に、

旭初出家、亦負宗乗、而藐教典。妄謂持名、曲為中下。後因大病、發意西歸。嗣研妙宗・圓中二鈔、始知念伸三昧、無上寶王。方肯死心・執持名號、萬牛莫挽也。(宗論七ノ一巻一九頁)

と語られている。智旭の二十八歳以前は、禅者の時代であって、仏典の研究や浄土の念仏などは好まなかったが、二十八歳の大病を縁として、「有禅有浄」の禅者的浄土行者の時代に入り、そして、三十一歳にして、始めて禅を捨てて専ら浄土の称名念仏に徹した(7)。ここであらためて知られることは、智旭が三十一歳の折に、称名念仏に関する天台系統の二種の著述を読んだことである。一つは四明知礼(九六〇ー一〇二八)の『観無量寿経疏妙宗鈔』であり、もう一つは幽渓伝燈(一五五四ー一六二七)の『阿弥陀経略解円中鈔』である。よって、彼は雲棲祩宏の浄土思想を離れて、天台学系ことに四明知礼の浄土思思に沿って、念仏三昧の称名念仏の一途に入ったと考えられる。ところが、本章第一節第一項の図にみたように、三十一歳の年の智旭は、禅宗の流弊を矯正する目的で、自我の修行には浄土念仏を選び、教団の制度には戒律を弘め、教徒の教化には教学を研究するという三つの決意を抱いていたことを示している(8)。したがって、教団および教徒のための彼自身の修証時間が相対的に減ったので、この点について、