明末中國佛教の研究 277

任運にして清浄無虧なはずである(11)。なお『妙楽文句記』巻十上によって、もし初二品の人なら、「初心念念、常在四種三昧」という状態に入るはずであるが(12)、残念ながら智旭自身としては、「戒品尚多缺略、持名猶属散心」(13)という穢れる修道者であった。彼は、越えて五十六歳の十二月初三日に作った『病間偶成』の偈に、「名字位中真仏眼」(14)という自証境を示している。「名字位」とは僅か六卽の第二位である三宝を信奉する凡夫にすぎず、彼はかように自己反省をしており、真に耻しく思い、かつ悲しみを感じているのである。

さらに、四十七才以後の純粋な浄土行者となったことは、次のような経緯による。

彼は四十七歳以前にも持名念仏を行ない、そのほかの種々の行もしたが、生死の煩悩はまだ解脱し得ない。徴弱な自力によって生死の枷鎖を脱出することは無理であった。かくて、彼はあらためて一途の阿弥陀仏の願に傾注した。たとえば、彼は五十歳頃、弟子成時が始めて参見する際に、次のように語っている。

吾昔年、念念思復比丘戒法、邇年、念念求西方耳。(宗論巻首序説一五頁)

これは弥陀浄土へ求生する念願を明かにしている。それまでの智旭は、弘法利生の夢はなお忘れていない(15)。このためにその後の智旭は、また『法華会義』・『起信論裂網疏』・『楞伽経義疏』および『閲蔵知津』などの重要著書を撰述したり、晟谿・長水・歙浦などの地方へ遊化したりしたが、ここにみられる晩年の智旭は、極楽浄土へ行く保証をすることができるのは、『観無量寿経』に説くところであると見ている。極楽浄土の往生には、九品あり、智旭の見た彼自身は、最上品にはならないが、少なくとも最下品へは絶対に生まれて行く信念をもっている。それを下下品生という。この点については次の三つの資料を挙げることができる。

『観無量寿経』に説かれる下品下生の条件とは、たとえ五逆罪と十悪業を造作した衆生であっても、もし死亡の直前に、ある善知識の教える阿弥陀仏の誓願を知って、すぐ阿弥陀仏の名号を唱え、あるいは十念ほどの短い間でも、そうするなら、必ず弥陀・観音・大勢至の一仏二菩薩の接引力で、極楽浄土の第九位に往生して行くことができるとする(16)。智旭は五逆と十悪の罪業を造作してはいないが、少年時代の謗三宝の罪報感を抱いている。

しかし、智旭は、四十七歳の元旦に、比丘戒の清浄輪相を得る前には、下下品生といっている(17)が、晩年に至っては、下下品生を下品蓮生と言い換えている(18)。下品蓮生の中には、下下品・下中品・下上品の三等類別が含まれる。これよりみて、智旭の願った往生の行先は恐らく下上品ではないかと想像される。

1 「八不道人伝」。\宗論巻首二頁

2 阿弥陀仏の経典群において、誓願の数は、次のようになっている。

3 宗論一ノ一巻一ー五頁

4 『宋高僧伝』巻二十の「地蔵伝」には、七月三十日に涅槃という記載は見えない。\大正五〇巻八三八頁Cー八三九頁A参照。

4 宗論六ノ一巻一五頁

6 宗論三ノ一巻一頁および一〇頁、②宗論一〇ノ一巻二頁

7 宗論六ノ一巻一五頁

8 「霊厳寺請蔵経疏」にも、「末世禅病、正坐無知無解、非関多学多聞」。「乃発心徧閲大蔵、備採衆薬、自療療他」と語っている。\宗論七ノ三巻五頁

9 六卽とは、理・名字・観行・相似・分真・究竟の六つの円教仏の位である。

10 五品弟子位とは、天台において、円教十信位以前の外凡の位 に、五つの段階を設置するをいう。随喜・読誦・説法・兼行六度・正行六度がそれである。

11 大正三四巻一三八頁A

12 大正三四巻三四三頁C

13 宗論四ノ一巻二ー三頁

14 宗論一〇ノ四巻一六頁

15 「西有寱餘序」に、「蓋雖念念思帰楽土、而利人之夢、仍未忘也。」と述べている。\宗論七ノ二巻一五頁

16 大正一二巻三四六頁A参照。

17 「復霊隠兄」参照。(宗論五ノ一巻一四頁)この文献の作成年代は、智旭の四十四歳以前のことである。

18 「自像賛」参照。(宗論九ノ四巻一八頁および二〇頁)この資料の撰述年代は、智旭の五十歳以後のことである。