明末中國佛教の研究 284

「教を離棄して参禅すれば、得道は不可能である」と強調し(4)、②「示韞之」の法語には、「もし黄巻赤牘の経典の指導を受けなければ、勝義の法性に悟入することもできなくなる(5)」と述べている。

宗教一致


宗と教の一致の見解について、智旭が、①「梵室偶談」の第十七(6)に述べているのは、「宗とは無言の教であり、教とは有言の宗である」ということである。「もし三蔵十二部の教理に黙契すれば、みな宗であり、却ってまた禅宗のいう千七百の公案を挙揚すれば、みな教である」という。また、②「梵室偶談」の十九(7)には、「ただ真の宗匠である人が、まさに教家の空言を呵すべし、またただ真の義虎である人が、まさに宗乗の儱侗を叱るべし」とある。さらに、③「梵室偶談」の三十(8)には、「語言施設することを教といい、忘情黙契することを宗というので、宗の場合に「教外別伝」という言葉があっても、実はすなわち「教内の真伝」であると述べている。

見地と修証


見地とは仏法に対する理解のことで、修証とは禅観等の方便によってできた心得である。智旭の「示印海方丈」(9)の法語にみられる見解は「まず見地を開いてから、後の修証のことを言うべし、もし徒らに世間のことを離れて、枯れて蒲団に坐われば、死ぬまで続けていても無駄なことである」としている。

信・解・行の次第先後


禅宗の修証は、行であり、行の先決条件は見地を開いて教理を認識することであるが、もし信仰心がなければ、いくら教義を研究しても、仏法の利益を得ることはできない、智旭は「示慈⑥」(10)の法語に、「信心があり、しかして智慧がなければ、則ち能く煩悩を増長し、または智慧があり、しかして信心がなければ、則ち邪見を増長する」と述べている。なお「復閻浄土」(11)の手紙には、達磨祖師のいう「不立文字」とは、末法時代の無知比丘のような「不識一丁」の意味ではない。そして『楞厳経』・『円覚経』並びに『大乗止観法門』・『摩訶止観』等の教典に、いずれも「先開円解」を強調しており、禅宗のいう「不立文字」の真意(12)は、