明末中國佛教の研究 288

大いに教学の本旨に背いたといえよう。たとえば、東周時代の五伯(3)は、共に周朝の皇室を尊崇しているが、実際には周朝の皇帝の権力は、五伯の争いによって漸次に剥奪されたのである。これと同じ様に、後世の経論の註釈書が多ければ多いほどそれら経論原典の真義は湮没している。換言すれば、智旭の述作に対する態度は、後世のような粗暴なものではなく、必ず古人のように「発幽微、示指帰、出綱要、明修法」という四つの原則に立脚して経論の註釈に従事するベきであるというのである。なお、彼の「金剛経偈論疏註序」の中にも、次の見解が見られる。

予生平研討経論、必本四依、不喜近時意見、穿鑿茫無根據。故於疏註、輙深随喜、亦願後之讀是書者、因指得月、不必紛紛更從事於異説、而多以爲博也。(宗論六ノ四巻四頁)

この『金剛経偈論疏註』は、紫柏真可の在家弟子である何老居土の所作であるが、現存していないようである。この作者に対して智旭は、『論語』「述而篇」の文を用いて「述而不作、信而好古」と論評しているが、この序文を著わしたのは、「随喜」の気持にすぎない。もしこれを当時一般の註疏と比ベれば、むしろこの『金剛経偈論疏註』は、佳作だと認めている。智旭の評断の標準は四依である。すなわち、四依とは①依義不依語、②依智不依識、③依了義不依不了義、④依法不依人ということである(4)。けれども、智旭が見た当時一般の経論註疏は、この四依の標準に背いて、単に根拠なしに勝手に穿鑿し、勝手な異説を造作するにすぎないと論じている。要するに、智旭は四依の原則に基づいて、一切経論とその註疏を取り扱ううちに、修行力によって証悟を得て、その後に、始めて大悲願力に乗って、馬鳴・竜樹・智顗・澄観等のように著作に従事すべきであるとするのであって、決して旧説の抄襲あるいは無根拠の異説をたてるべきではないという。したがって、智旭の思想は単に従来の伝統を継続するのではなく、伝統仏教を一旦まとめた後に、改めるベきところを改めようとした時代的仏教新思想の開拓者であるというべきである。