明末中國佛教の研究 290

実に春風のような感じを受けるであろうというのである。智旭の資料の中には、「折伏」の思想は見えていないが、悪をにくむこと仇敵をにくむが如くであるのは事実であろう。よって、智旭の論調に対する当時の諸宗学者からは反発もあった。具体的にどの人物に、どのような反発があったかということについては、現存の資料では全く見当らない。しかし、智旭の「自像賛」の第四に、「讃毀一任諸方」(13)、とあることによって考えると、当時の智旭の思想に対する反響は、賛否両論があったようであるが、真に智旭の思想と呼応する人はほとんどなく、このことを、智旭は彼の「自像賛」の第五に次のように明言している。

全身等微羽、片語重千金。支那國裏留個硜硜小人種、千古萬古未審誰知音。(宗論九ノ四巻一七頁)

彼は肉体の安否苦楽に対しては、関心を払わないが、自分の思想言論に対しては、一言であっても千金よりも大事にしている。「硜硜小人種」とは、『論語』「子路章」の「硜硜然小人哉」という典拠を援用するものであり、いわば細かいことまで、善悪または邪正を量り比べるのは、儒教の立場から見るとあまり立派とは言えないが、当時の腐敗して乱れた仏教の状態に対する智旭の指摘は、非常に広くしかも深入していたので、自分から儒教の小人と譬喩したのである。したがって、当時の仏教界において、智旭に賛同し得る見識および学力をもつ学友はいなかった。だから、千年万世の後に至り、誰がその学友になるかと、智旭は深く疑問を投じながらこれを待っていると記しているのである。一言でいえば、明末における独特な新興仏教思想を開拓した智旭は、その思想面の建立者となりえたが、その教団の建立はできなかったのである。

1 宗論五ノ一巻一一頁

2 宗論五ノ一巻一五頁