闕本の中の『宗鏡録刪正』は智旭の思想を考察するうえで非常に重要なものと思われる。なぜなら、智旭の性相融会論の思想の源流あるいは思想の指標は永明延寿(九〇四ー九七五)の『宗鏡録』であり、なおかつ智旭が讃美する仏教史上の思想家の中に永明延寿は含まれている(1)。智旭は従来の法涌本の『宗鏡録』を三遍閲読して発見した「法涌諸公、擅加増益。於是、支離雑説、刺人眼目。」というところを校正した。そして、その「蕪穢」を刪削するに伴って、百問答を設け、なお三百四十余段落を標示した(2)。しかし、このいわゆる智旭側正本と称すべき『宗鏡録』の原稿は、一度明末の名居土である銭謙益(一五八二ー一六六〇)に見せているのである(3)が、現存大正新脩大蔵経に所収されている『宗鏡録』は、恐らくまだ法涌本のままに収録されており、智旭の刪正本からなんの影響力も受けなかったとみられる。
また、『浄土十要』と『十善業道経節要』の二書は、編定し節録したものであるから厳密にいえば、智旭の著作というべきではなく、さらに『毘尼珍敬録』は、紹覚広承が輯録し、智旭がこれを会補したにすぎないのであるから同様のことがいえよう。
したがって、実際に智旭の釈論とされる現存本の総数量は、およそ五十種百九十巻である。それらの成立年代については、「八不道人伝」に述べる二十三種は、年代順になっているが、「宗論序説」・『日本天台史』続編・『昭和現存天台書籍綜合目録』は、いずれも年代順ではなく、かつ内容の分類順でもない。
成立年代不明諸書の年代推定
上述の表の中に、年代不明の現存の著作、十五種を挙げている。それらの署名方式を検討すると、『沙弥十戒威儀録要』・『優婆塞戒経受戒品箋要』・『優婆塞五戒相経箋要』の三種は、みな古呉蕅益沙門智旭」と署名されているので、恐らく智旭が五十二歳の時、『重治毘尼事義集要』を完成すると同時に、