明末中國佛教の研究 302

「蕅益道人」または「蕅益沙門」の誤りであろう。なおまた、「庚辰」という干支の書きかたは、或は「庚午」の誤りであろうか。そうであれば、庚午年の智旭は丁度三十二歳(一六三〇)であり、その年の彼は拈鬮の方法で天台宗に私淑して、天台宗の三大部を勉強しているのであるから、『法華玄義』を節要する可能性がないことはない。しかし、この二つの見方のいずれか妥当であるか、卽断することはできない。

一方、『法華綸貫』の成立年代についての浅井氏の主張は、智旭の『法華会義序』によるものである。すなわち、この序文には、

方予寓温陵、述綸貫也、蓋欲誘天下之學人、無不究心於三大部也。今屈指十餘年矣。(卍続五〇巻一八頁A)と述べられている。この序文は、智旭が『法華会義』を下筆する時に著わしたもので、年代は智旭五十一歳の十一月五日であり、「十余年」前といえば、彼四十一歳以前のことになる。智旭が始めて温陵に着く年は、丁度、彼の四十歳と四十一歳の頃であり、これに基づいて 、浅井氏は『法華綸貫』を四十一歳の著述と主張されている。ところが、『法華綸貫』の『後序』によると、これを作成した場所は温陵の「紫雲」であり(6)、また、『周易禅解』の跋文によると、智旭が紫雲に赴いて、『法華経』を講じたのは、彼四十三歳の冬である(7)。したがって、『法華綸貫』の成立年代も、智旭の四十三歳の冬としなければならないのであろう。

智旭の重要著作


智旭の著作を年令の時代によって区分すれば、彼の三十九歳をその分水線とするのが最も適当であると思う。三十九歳の智旭は、『梵網経』を講ずるうちに悟境を得、それからの著作は彼の成熟期のものであると考えられる。けれども、彼三十九歳以前に述作したものの内、戒律に関するものは、ほとんど三十九歳以後の再治あるいは訂正を経ているので、早期の思想はあまり見られない。智旭が自から語っている重要な著作は、