この表から知られるように、二十二種の未作成の著作中で、智旭自身の文献の中に、『円覚経新疏』と『維摩経補疏』の二種は、三回みられ、『観経疏鈔録要』と『大涅槃経合論』の二種は、二回みられる。その他、『十輪経解』・『無量寿如来会疏』・『賢護経解』・『地蔵本願経疏』・『僧史刪補』・『緇門宝訓』・『続燈録』の七種は、それぞれ一回ずつみられる。そして、成時撰の「続伝」には、『続燈録』を除く二十一種がみられる。よって、智旭自身が最も重要視していたものは、『円覚経新疏』および『維摩経補疏』の二種といえるであろう。
一般に学者は、智旭を天台系に属する人物だとしているが、天台智顗の三大部と五小部を基準として智旭の著作を考察するならば、天台系統に関連するものは極めて少数である。特に前述の如く智旭が重要著作であるとするものの中で、法華経関係のものはただ『法華会義』のみである。これは『法華文句』と『文句記』によったものである。また、『法華玄義節要』はあったが、彼の重要著作ではなく、『摩訶止観輔行録要』はついに完成しなかった。五小部に関する『金光明経続疏』と『観経疏鈔録要』の二書も名目のみで、述作されなかったのである。
天台宗関係のもの
ところで、この二十二種の未作成の書目を研究すると、天台関係と天台関係以外の二類に分類することができる。智旭の天台宗の祖師に対する態度は条件つきの尊敬である。すなわち、天台関係では、南嶽慧思(五一五―五七七)、天台智顗(五三八ー五九七)、章安灌頂(五六一ー六三二)、荊渓湛然(七一一ー七八二)、四明知礼(九六〇ー一〇二八)の五人のみが尊敬の対象であり、この五人の著書の中で関心を持つのは次の六種である。
- 『維摩経補疏』は、いうまでもなく天台智顗の『維摩経玄疏』を受けてこれを補充するものである(1)。智旭には、高麗の諦観の『四教儀』に対する不満がある(2)。諦観伝来の『四教儀』は天台大師の「四教義」を演釈したもので、これは天台智顗の『維摩経玄疏』の中から「四教義」・「四悉檀」・「三観義」を分立したものである。故に智旭が『維摩経補疏』を著わそうとした目的は、その「四悉檀」と「三観義」を発揮するのみでなく、おそらく諦観の『四教儀』に反論するためであったと推測される。
- 『大涅槃経合論』は、章安灌頂が『涅槃玄義』と『涅槃疏』を述作し、荊渓湛然は『涅槃後分疏』を、荊渓門下の元皓は、同経の『註』および『科文』を、また智雲・道進・行満の三人は、『涅槃経』の註疏をそれぞれ著わしていて、天台宗は『涅槃経』の経説と深遠な関係にあるので。智旭はこれらを改めて、李通玄作百二十巻の『華厳経合論』、または袁宏道作十巻の『西方合論』という題名を真似た『涅槃経合論』を述作する予定であったと思われる。
- 『観経疏鈔録要』とは、文字通り智者大師の『観無量寿経疏』並びに四明知礼の『観無量寿経疏妙宗鈔』の二書の要点を節録する予定のものと思われる。
- 『金光明最勝王経続疏』は、智者大師の『金光明玄義』と『文句』、四明知礼の『金光明玄義記』と『文句記』の継承であると考えられるが、天台大師に依用されたのは、北涼曇無讖訳四巻本の『金光明経』であり、智旭はこれを改めて、唐の義浄(六三五ー七一三)訳十巻本の『金光明最勝王経』を註釈する予定⿀§あったと思われる。
- 『仁王経続疏』は、智者大師が『仁王般若経疏』を残しているから、これを継承して新義を発揮する予定であったのであろう。
- 『摩訶止観輔行錄要』は、智者大師の『摩訶止観』および荊渓湛然の『摩訶止観輔行』の二書から要点を節録するものであったと思う。事実、智旭にとって、『摩訶止観』は『大乗止観法門』の重要性に遥かに及ばなかった。彼は四十四歳頃、『大乗止観釈要』を述作し、また四十七歳(3)と五十一歳(4)の二回にわたってこれを講じたが、『摩訶止観』と『輔行』の録要には従事しなかった。いわゆる天台三大部に対しては、『法華玄義』によって二巻の『妙玄節要』を、『法華玄義』と『法華文句』によって一巻の『法華綸貫』を、また、『法華文句』と『法華文句妙楽記』によって十六巻の『法華会義』を作成したが、『摩訶止観』に関するものは、最後まで著わさなかったのである。
その他
天台宗関係以外の未作成書目は十六種あり、その中には、華厳・禅宗・浄土・および地蔵と薬師信仰の大小乗典籍が含まれている。
- 『円覚経新疏』について述べると、『円覚経』についての天台学者の註釈書はないわけではない。たとえば、四明門下の広智系の柏庭善月(一一四九ー一二四一)の『円覚経略釈』、南屏系の竹庵可観(一〇九二ー一一八三)の『円覚経手鑑』、同系の澄覚神煥(生歿年不詳)の『円覚経疏』、並びに慈室妙雲(生歿年不詳)の『円覚直解』、古雲元粋(生歿年不詳)の『円覚経集註』、および印海子実(生歿年不詳)の『円覚文句』等がある。しかし、現存するのは、僅か元粋の『集註』のみである。したがって、智旭にとって、これらの天台学者の『円覚経』の註釈書は、なんらの影響もなかったと思われる。もしあるとすれば、むしろ華厳宗の第五祖である圭峰宗密(七八〇ー八四一)の『円覚経略疏註』に反論するために智旭は『新疏』撰述の用意があったのであろう。なぜなら、彼が三十七歳の折に著わした『盂蘭盆経新疏』の目的は、宗密の『盂蘭盆経疏』に反発するものであり、この例から『円覚経新疏』も同様の立場をとるものであると考えられるからである。『盂蘭盆経新疏』は、宗密が『盂蘭盆経』を「是人乗所摂、在於小乗蔵中」(5)と論断していることに対して、これを大乗方等教の菩薩蔵に収摂するものであると強調している(6)。あらゆる方等大乗経典を円教と判定する智旭は、華厳教判に対して批判的態度を示しており、宗密が『円覚経』を終・頓二教と判属する教判に対して反感を抱くのは当然のことであろう。
- 『普賢行願品続疏』は、『華厳経』の一品である『普賢行願品』について華厳宗の四祖清涼澄観(七三七ー八三八)が十巻の疏を残しており、澄観に対しての態度は「儒釈宗伝竊議」(8)と「十八祖像賛」(9)から窺がえるように、かなり敬服している様子がみられる、また、智旭は普賢菩薩の十大願と地蔵菩薩の因地本誓をもって大菩提心思想の最高依準とするのであるから、澄観の疏に随って『続疏』の述作をこころざしたものであろう。
- 『地蔵十輪経解』、④『地蔵本願経疏』の二書を著すのは、智旭の地蔵信仰にもとづく。彼は二十歳の折に『地蔵本願経』を聞いて始めて真の仏教の信仰者になったが、その後、『占察善悪業報経』を中心として『占察経行法』・『占察経玄義』・『占察経義疏』を作成した。また智旭の「九華地蔵塔前願文」によると、彼は『地蔵本願経』による忉利勝会の地蔵菩薩、『地蔵十輪経』による大集勝会の地蔵菩薩、『占察経』による六根聚会の地蔵菩薩に対して、それぞれ燃臂供養をしたとある(10)。したがって、彼は『占察経』の闡揚に続いていわゆる地蔵三部経の解釈書を完成しようとしたのであろう。
- 『無量寿如来会疏』は、唐の菩提流支が訳した『大宝積経』第五会、すなわち、第十七・十八巻に収められているものを註釈する意図をもったものである。『無量寿如来会』の内容は、実際には曹魏の康僧鎧訳『無量寿経』二巻の再訳にすぎないが、これは劉宋の畺良耶舎訳『観無量寿仏経』並びに姚秦の鳩摩羅什訳『阿弥陀経』と共に、浄土三部経といわれている。これに対して智旭は、『阿弥陀経』についてはすでに『要解』を述作し、『観無量寿仏経』については『観経疏鈔録要』の述作を意図していた。『無量寿経』に関する釈書は、インド世親の『無量寿経優婆提舎』、隋の慧遠の『義疏』二巻および吉蔵の『義疏』二巻の三疏がある。しかし、『無量寿如来会』に関する註釈書は、いまだかってなかったので、智旭はこれを註釈しようと計画したのである。ここで言及しておきたいのは、智旭が経論を註釈する折の態度である。たとえば、彼の『大乗起信論裂網疏』の所依は真諦訳(11)のものではなく、実叉難陀訳のものである。これは必ずしも智旭の新訳に対する偏見ではない。智旭は、ある経論の新旧両訳とも註釈書がない場合には、むしろ旧訳本を取って註釈しており、旧訳本の註釈書がある場合には、新訳本を註釈しているのである。
- 『賢護経』は、『大宝積経』巻第百九と第百十に収められている。これは隋開皇十一年(五九一)闍那堀多訳の『賢護長者会』に同じであり、異訳として、後の唐高宗永隆元年(六八〇)地婆訶羅訳『大乗顕識経』二巻がある。これは素朴な六界と六入を説く経典であり、ことに六界の中の識界、六入の中の意のほか別に真如法性という常住不変なものについては説いていないが、おそらく智旭は彼の「現前一念心」思想に依拠して、第六意識を一切観行の最初根本としていることから、本経解釈の意図を持つにいたったのであろう。
- 『大乗同性経』(12)は、『一切仏行入智毘盧遮那説経』という別称がある。これは、北周天和五年(五七〇)に天竺三蔵闍那耶舎が訳したものである。新訳に唐永隆元年(六八〇)地婆訶羅訳『証契大乗経』二巻がある。「大乗同性」は「大智同性」ともいい、契入衆生実相あるいは契証七菩提分の宝性という意味である。これについて注目すベきことは、破戒者のごとき痴人でも、正信を得て直心淳浄ならば、よく善処に生ずると述べていることである。これは他力教を暗示するものであると思われる。本経に説かれる十地の思想は、『華厳経』と異なり、声聞・辟支仏に各十地があるとし、さらに如来にも十地があるということである。智旭には破戒意識が強いので、他力教に頼る傾向がいちじるしく、かつ種々の異説を統一する要望も非常に強い。そこでこの『大乗同性経』の註釈をこころざしたのであろう。
- 『無字法門経』(13)は、唐の儀鳳元年から垂拱四年(六七六―六八八)の間に地婆訶羅が訳出したものである。その内容は貪欲・瞋恚・愚癡・我執・懈怠・睡眠・染愛・疑惑・無明を滅除し、五戒十善を守護して、諸法無自性と無文字を理解することを説き、もし人がこのようにするならば、命終の時には、当に阿弥陀仏を見ることを得、当に釈迦牟尼仏の常在霊山を知るであろうと語っている。本経はただ一巻の短い経典であり、内容としては非常に精簡なもので、修道論、本体論、ことに阿弥陀仏の極楽浄土と釈尊の霊山浄土とを共に暗示しているのは注目すべきところであろう。よって本経の註釈書を意図する智旭の心中も理解されよう。
-
『薬師琉璃光七仏本願功徳経』二巻(14)は義浄が唐の神竜二年(七〇七)に訳出したものである。これより先、隋の達磨笈多訳の『仏説薬師如来本願経』と唐の玄奘訳の『薬師琉璃光如来本願功徳経』並びに東晋の帛尸梨蜜多羅訳といわれる『灌頂経』第二十巻(一名『仏説灌頂抜除過罪生死得度経』)の三種の訳本は、その内容が、同じものであることが知られている(15)。これらには倶に薬師如来の十二大願が記されている。今の『薬師琉璃光七仏本願功徳経』には、上巻に七仏各々の大願が記されている。これら七仏の内の第七の薬師仏の十二大願について、達磨笈多および玄奘訳の二経と比べると、両者は一致しているので、おそらく『薬師七仏経』は、上述の三種訳本の大本『薬師経』であると推定することができる(16)。本経には西蔵訳が存し、その比較対照は『甘殊爾勘同目録』の第百三十五番に記されている。したがって、望月信亨博士の『仏教経典成立史論』にある薬師経の疑偽説(17)については、更に検討する余地があるであろう。
『薬師経』に関する註釈書については、新羅の太賢(七四二ー七六四代)が玄奘の訳本によって註釈した『本願藥師経古迹』二卷(18)があり、また、中国の大乗基(六三二ー六八二)に『薬師経依』一巻、円鏡に『薬師経義玄鈔』四巻および『科』一巻があり、さらに、霊耀(一六八三ー?)に『薬師経直解』(19)がある。しかし、現存しているのは『古迹』と『直解』の二書だけである。そのうえ、二巻本義浄訳の『薬師七仏経』については、智旭以前に註釈書がまだなかった。智旭は二十歳の折に、延命信仰にもとづいて『薬師妙典』を礼拝していたが(20)、これを註釈宣揚する意図はまだみえていない。よって義浄の訳本に対して疏の製作を志していたものと思われる。
- 『十善業道経』(21)は、『海竜王経』巻第三、「十徳六度品」(22)の抄訳である。また後の宋の施護訳の『仏為沙曷羅竜王所説大集法経』も同経の異訳である(23)。これは経集部の経典であるが、智旭の『閲蔵知津』の巻第三十二並びに『法海観瀾』巻第一は、本経を大乗律典に摂属している。しかも智旭はすでに『十善業道経節要』(24)を撰述している。いわば、十善法は大小乗戒律の基礎であるから、十善法を完全に行なえば無量の功徳を得るだけでなく、十力・四無畏・ないし十八不共法など一切の仏法の利益を円満する(25)。ゆえに、智旭は註解をこころざしたのであろう。
- 『十二頭陀経』(26)は、劉宋元嘉十二年と二十年の間(四三五ー四四三)に、求那跋陀羅が訳したもので、釈尊が迦葉尊者に対して、十二種の阿蘭若処で必修する生活軌範を説いたものである。その内容は、十二頭陀行をもって心を散乱せしめず、禅定の功徳はこれより生ずるので、諸相を滅除し、如実智に証入して、阿羅漢となり、ないし大乗菩薩の十地満足を得ることができると語っている。比丘生活ではこの十二頭陀行を実践すべきであるが、この経を註釈し宣伝する先例が全くなかった。比丘生活の精進護持を高調する智旭は、これについてしばしば論じている(27)。以上の理由から疏を作る意図があったのであろう。
- 『四阿含』について、智旭の『閲蔵知津』に、『増一阿含経』五十一巻は、人天の因果を明かし、『長阿含経』二十巻は、邪見を破す。さらに、『中阿含経』六十巻は、深義を明かし、『雑阿含経』五十巻は、禅法を明かすと語っている。また、智旭の法語である『示閲蔵四則』には、蔵経閲読の次第について、律蔵・四阿含・天台教典・諸経論の四段階を設けている。『四阿含』は「正因縁境を了して、円妙三観の本と為す。」(28)という意味から、その肝要を抜萃する意図があったものと思われる。
- 『発菩提心論』(29)は、世親造、鳩摩羅什訳で、十二品二巻より成り、大乗思想に立脚し、菩提心の発起を中心として修道思想を記述している。その「発心品」第二品において、菩提心を起すに四縁あり、一には諸仏を思惟することによって菩提心を起す、二には身辺の過悪を観じて菩提心を起す、三には衆生を慈愍して菩提心を起す、四には最勝の果を求めることによって菩提心を起す。」と説かれている。第三の「願誓品」においては、「乾慧地に住する発心菩薩は菩提成就のために当に十大正願を発すべし、この発心の始まるところは大悲心であり、六波羅蜜は菩提の因、四無量心・三十七菩提分法。諸善万行は、これを助けるものである。」と記述されている。第四品以下第九品までは、各波羅蜜を中心として、菩薩の修する徳目を説明している。ついで、第十品の如実法門には、実相・一相・無相の第一義諦を説明し、第十一品の空無相には、空と信と菩薩の修する諸忍すなわち無生法忍・信忍・順忍等を説いている。よって、第十と第十一の二品は、禅観行の理論とその修する方法を明示するものであることがわかる。智旭にとって大菩提心は彼の根本精神であり(30)、かつ「教観雙修」(31)なる理想を持つ以上、この『発菩提心論』を解釈したいと考えるのは当然なことであろう。
- 『僧史刪補』とは、おそらく宋の賛寧の撰『大宋僧史略』(32)三巻を刪正補充する積りであったと考えられる。
- 『緇門宝訓』については、次のように考えられる。宋の浄善に重集された『禅林宝訓』(33)四巻、および明の如巹続集『緇門警訓』(34)十巻の中、智旭はしばしば後者を『重治毘尼事義集要』に引用していることから、彼は類似の書物をあらためて編集する予定であったのであろう。
- 『続燈録』は、智旭が「復銭牧齋」の書簡に示したものである。彼は三十四年の努力をかけて明朝の禅宗語録を編集し、この『続燈録』の完成をこころざしたのであるが、残念ながら完成しえなかった。
小結
以上二十二種の未作成の書名の中で、注意すべきことは、旧疏に反論するものを「新疏」、旧疏にしたがいながらも新義を述ぶべきものを「続疏」、原書にしたがいつつその要点を節録するものを「録要」あるいは「節要」、註釈書を見ない経論について述べる場合を「解」または「疏」とそれぞれ標題していることである。智旭は大蔵経を閲覧しているうちに、折にふれて註釈すべき典籍を発見していたが、世人はむしろこういうことに対しては関心を持たなかった。このことについては彼の『閲蔵知津』にしばしば述べられている。よって、二十二種の書名中、智旭の時代まで註釈書のなかったものは十一種を占めていることになるのである。
1 「維摩経提唱略論序」に、「嘗観古来註述。……(中略)……欲追成周礼楽、捨智者大師一人、指未易屈。」\宗論六ノ四巻一三ー一四頁
2 「八不道人伝」に、「四教儀流伝而台宗昧。如執死方医変証(症)也」とある。\宗論巻首四頁
3 「周易禅解跋」。\宗論七ノ一巻二〇頁
4 宗論六ノ四巻九頁
5 『盂蘭盆経疏』巻一。\大正三九巻五〇六頁B
6 『盂蘭盆経新疏』。\卍続三五卷一五四頁C
7 『円覚経略疏註』。\大正三九巻五二六頁BーC
8 宗論五ノ三巻一七頁
9 宗論九ノ四巻一二頁
10 宗論一ノ三巻一頁
11 周知の如く、『起信論』の中国撰述説は望月信亨、『大乗起信論之研究』(一九二二年)の主張。これに対して宇井伯寿は『印度哲学史』(一九三二年)と『仏教汎論』(一九四七年)に印度撰述説を主張している。最近では松涛誠廉がこれを馬鳴作と主張されている(『日仏年報』第二二巻一九五六年にある「起信論の体系と年代」および『大正大学研究紀要』三九号にある「瑜伽行派の祖としての馬鳴」参照)。
12 大正一六巻六四〇頁Cー六五二頁C
13 大正一七巻八七四頁Aー八七五頁C
14 大正一四巻四〇九頁Aー四一八頁A
15 『閲蔵知津』一二巻一四頁
16 『閲蔵知津』五巻一九ー二〇頁
17 望月信亨『仏教経典成立史論』四〇九ー四一六頁