明末中國佛教の研究 317

出版することはできなかったという原因によって成時はこれを智旭の既成の文集と見なさなかったのであると考えられる。 また、各文集の内容と巻数に関する記載は『宗論』の中にも一切見えない。ことに成時は『宗論』を編集の際、各文集の原来する模様をすべてつぶし、かつ各文前と文末に記載されている作成の年月日を抹消しているのである。智旭の現存の釈論諸書の序文と跋文の文末には、その作成の年月日がすべて記載されている。なお現存する文集『絶餘編(5)』巻第一に録載されている願文にも年月日が記載されている。

現存の別行本


前挙の七極または八種文集のうち現存する別行本は、『絶餘編』四巻のみである。なお、『昭和法宝総目録』第二冊の三二四頁の中欄第十四行目に『浄信堂』八巻と記載されているが、これは散佚している。これについて、康煕二十四年(一六八五)檇李鳳鳴講寺の徳成が述作した「閲蔵知津跋語」には次のような記載がある。

我祖霊峰蕅益大師、一生著述最富、板存楞巌(寺)者、有三十餘種、其間如浄信堂初集八巻、浄信堂答問一冊、皆板壞不復存、餘可知矣。(『閲蔵知津』四四巻一九頁)

ここに見られる記述から、『浄信堂初集』八巻と『浄信堂答問』一冊の版木は、今から三百年前にすでに損壊してしまっていることが知られる。智旭五十六歳の時に述作された『幻遊雑集』は、その自序によって知られたのであるが、四十紙たらずの薄いもので、その内容については不明である。その他の五種の文集に関しては、