明末中國佛教の研究 32

次の見解があることから知られる。

焦氏有言、老之有荘、猶孔之有孟。斯言信之。然孔稱老氏猶龍、假孟而見荘、豈不北面耶。(『憨山大師夢遊全集』巻第四十五\卍統一二七巻四〇〇頁A)

これによれば、徳清は、『翼老子』二巻の著者である焦弱侯(一五四〇ー一六二〇)の見解、すなわち荘子と老子の関係は孟子と孔子の関係の如しとする見解に完全に同意している。そして、孔子が嘗って老子に礼儀のことを請問し、称讃していることを述べ、もし孟子が荘子にあったら、恐らく礼讃することもあろうと、徳清は推測している。いわば徳清の見解によれば、儒教の孔子や孟子よりも、道教の老子や荘子の哲学思想が、より優れていると考えている。ことに『荘子』一書に対する徳清の評価は、案外に高い。これは前挙の文章に続いて、次のように語っていることによって知られる。

閒嘗私謂、中國去聖人、卽上下千古、負超世之見者、去老唯荘一人而已。載道之言、廣大自在、除佛経、卽諸子百氏。究天人之學者、唯『荘』一書而己。(同右)

ここで徳清のいう「聖人」という言葉の真意はよく判らないが、超世間の思想をもつ人として、その聖人の他に、ただ老子と荘子の二人のみを挙げている点から、彼の所見が明らかに知られよう。さらに世出世法の教えを載せるのは、仏典の他に諸子百家の書籍があるが、天人の学を窮究するのは、ただ『荘子』一書のみであると、これに好意的な評価を与えている。

同書には、また老手をもって、『楞厳経』と同列に論ずると同時に、孔子の位を老子の下におろしているが、彼自身が仏教の立場を失うことは当然、避けなければならないので、老子の思想がどんなに優れていても、