現存する書は日本天和三年(一六八三)「東洞院通六角下町山口忠右衛門富次刊行」の複刻本である。これは智旭が入滅してから第二十七年目に当る。しかし、次に問題になるのは、智旭の著作並びに『宗論』の編集者である成時の文章に、いずれもこの現存三巻本の『浄信堂答問』という書名はみいだせないことである。みられるのは『浄信堂初集』とその『続集』の名である。したがって、『答問』と『初集』および続集との間にいかなる関係があるのか、ここで検討を試みたいと思う。
さきに述べたように、『浄信堂初集』は、八巻である。今の『浄信堂答問』は僅か三巻であるから、『初集』と『答問』が同一の書物であることはありえない。なお『浄信堂続集』に関する資料は不充分であるが、『絶餘編』のような文集の一種であることは間違いない。だが『絶餘編』に収録されるものは、智旭三十八歳の春の終りから四十歳の秋の初めにかけての著作であるが(13)、彼が三十九歳に作成した「壇中十問十答」の答問一文は『絶餘編』に収録していない。すなわち、答問体裁の重要文章が彼の文集に収録されていないのである。よって、文集の『浄信堂続集』が、専ら答問体裁の文章から編成されたものではないことはいうまでもないであろう。その上、重要韻文である『蕅益三頌』は『宗論』に収輯されているが、智旭の七種文集の中にはこれが含まれていない。なぜなら智旭はこの『三頌』を独立する著作の一種と見なしているので、その「八不道人伝」にも、わざと『三頌』を重要著作として挙げている。したがって、答問体裁の主要文章によって編成した『浄信堂答問』は、おそらく最初から文集には収録されておらず、しかも『三頌』のように別冊で出版したものであると考えることができる。
なお、『答問』の署名「北天目蕅益比丘智旭著」について考えると、その編成年代は智旭の四十七歳または四十八歳の頃であると推測することができる。彼は四十七歳の元旦、『占察経行法』の修行によって再び比丘の身分を得たが、四十八歳に述作した「丙戍生辰驟雨初霽偶感」の詩偈には、「法門小比丘」(14)と自称している例がみられる。