明末中國佛教の研究 322

これと同年に作成した『占察行法願文』にも、「比丘智旭」(15)と自称している。その後、入寂するまでの九年間に比丘と自称することは全くない(16)。さらに彼が四十七歳の時に述作した『周易禅解』の署名方式は、「北天目道人蕅益智旭著」となっている。「北天目」の冠称を使うのは、彼の釈論諸書の中に僅か四十七歳、五十三歳、五十六歳における六種の著書にみえるのみである。また「著」の文字を使うのは、僅か四十五歳時の『闢邪集』および四十七歳時の『周易禅解』だけにみられている。これらのことから、「北天目」と「蕅益比丘」と「著」の署名方式によって、智旭が四十七歳あるいは四十八歳の際に『浄信堂答問』を編成出版したであろうと推測することができる。

また『答問』に収録された唯識関係のものは、ただ智旭四十六・七歳頃に述作された「示講堂大衆観心法要」のみであり、彼が五十歳以後に完成した『答成唯識論十五問』という答問体裁のものはこの『答問』にみられない。そこで『浄信堂答問』の編成年代は、智旭が四十七歳から五十歳の間であることは明らかであろう。

別行本の成立年代


『梵室偶談』の題名の下に「門人果海録」という記載がある。この果海比丘とは智旭三十歳の年に新伊法師の指示によって(17)始めて智旭に随侍した徹因のことである(18)。したがって、この『梵室偶談』は、智旭三十歳の年に述作されたものであると思われる。また、『性学開蒙』は、智旭が三十九歳の時作成した「壇中十問十答」の中の第四問答をあらたに敷演したものである。そこでこれはそれと同年代のものだと推定できよう。実際には『梵室偶談』の署名「古呉沙門智旭」、および『性学開蒙』の署名「方外史旭求寂」という自称方式を、彼の釈論諸書の年代順序の署名の差異と対比してもほぼ呼応している。そこで『宗論』に収録されており、なおかつ現存するその別行本について、その成立年代を整理してみれば次の表の通りである。