明末中國佛教の研究 324

衰 為『浄信堂初集』、戍寅(一六三八年四〇歳)秋前・裒為『絶餘編』」と記されている。\宗論六ノ四巻一六頁

14 宗論一〇ノ三巻一二頁

15 宗論一ノ四巻一〇頁

16 智旭の署名方式に於いて「比丘」を使われたのは、ただ三十五 歳頃に『占察経行法』を撰述した時に一回あるだけである。それ以後比丘の身分を捨てたので、四十七歳元旦までの間は「比丘」とはいえない。

17 宗論八ノ二巻二頁

18 宗論六ノ一巻六頁

二 宗論所録文献の分類

宗論内容の年代推定


『霊峰蕅益大師宗論』の組織分類について、その編集者である成時は「宗論序説」に、「文以類出、取便耳。非以文体」(1)と説明している。これは『宗論』の編集組織が、文章の体裁による分類ではなく、文章の内容の類似によって分類されている証拠である。したがって、「願文」類には偈・啓・疏も含まれており、「法語」類には唯識心要という語録があり、「茶話」類には示念仏三昧と示念仏法門の論文があって、しかもこれらの先後編次は、必ずしも述作の年代順に依準していない。たとえば「序」類の「周易禅解自序」(四七歳)と「大仏頂経玄文後自序」(四一歳作)の倒置、「西方合論序」(五三歳作)と「法華経台宗会義自序」(五一歳作)の倒置、また「題跋」類の「重刻蕅益三頌自跋」(四六歳作)と「性学開蒙自跋」(三九歳作)の倒置、「阿弥陀経要解自跋」(四九歳作)「周易禅解自跋」(四七歳作)の倒置や、「頌」の『蕅益三類』(四二歳作)を「白牛十頌」(三〇歳作)の前に編列するなどの例がかなり多い。したがって、編者の成時が著作の年代を削除した可能性が非常に高い。

『宗論』全体はおよそ二十八類七百九十七篇である。その中で年代の推定できるのは僅か二百五十篇である。