明末中國佛教の研究 35

第四節 キリスト教との連関

一 中国におけるキリスト教の流伝


中国におけるカトリックの歴史は、明の万暦年間に天主教の名をもって始まった。キリスト教としての中国に伝来した歴史を探れば、はやくも唐の貞観九年(六三五)に、景教という名称で長安に至っていたことが知られる。これは、明末頃、長安崇仁寺の南において発掘された『大秦景教流行中国碑』の内容により知られるところである。しかし、この景教は、中国に二百十年にわたる歳月の間流伝したが、唐の武宗の会昌五年(八四五)に消滅した。

宋代における西洋の宗教は、『開封重建清真寺記』によって、宋の孝宗隆興元年(一一六三)、一賜楽業(イスラエル)教の寺とその領掌教務の教師である列轍五思達という人物がいたことが知られるが、これはおそらくキリスト教ではなく、ユダヤ教の中国初伝であろうと推定されている(1)。但し、この一賜楽業教の教師とその信者については、元代を経て明代にわたる史料の考査は不可能である。

また元代には也里可温教という西洋からきた宗教がある。これは蒙古語でキリスト教を称することであり、その語意は、「福ある人」・「縁ある人」・「福音を奉仕する人」の意味である(2)。元史の『世祖紀』によると、この宗教は、至元七年(一二七〇)の勅文に初めて見られる。『至順鎮江志』によって判明するところでは、元代のキリスト教がもっとも盛行した地域は、江蘇省の鎮江であり、