明末中國佛教の研究 36

それは洪鈞氏の『元史訳文証補元世各教名考』の次のような事実からも知られる。

也里可温之為天主教、有鎮江北固山下残碑可證。自唐時景教入中國、支裔流傳、歴久未絶。也里可温、當卽景教之遺緒。

洪釣氏の記述した也里可温教は、唐の景教の支裔だといわれるが、必ずしも唐の景教と元の也里可温教のあいだに、関係があったという証拠はない。近世東西学者の研究の成果から知られるのは、景教は、西紀四三一年に開催された正統天主教の主教会議で異端と指摘された Nestorius 派の支流であるということである。また、この支派の流行した地域が、シリアおよびペルシアであって、唐代にペルシアから伝来し、景教として盛行したということである。元代の也里可温教の教師達は、ドイツ人、フランス人並びにイタリア人であるが、これは蒙古軍の西征に伴う西欧文化との接触から、天主教の教師たちも、それと共に中国ヘ向かってきたと考えるべきであろう。しかし、この也里可温教を信仰した人は、割合いに蒙古人が多かったため、元代蒙古王朝の滅亡にしたがって、也里可温教の活躍も、一時に終止符を打たなけれぱならなかった。

1 陳垣氏の『開封一賜楽業教考』参照。

2 拙著『基督教之研究』二一三頁参照。