明末中國佛教の研究 356

素朴な民間信仰の仏教から教義・理論を兼備した生活実践の仏教へと思想が移行している。すなわち、教義・理論兼備の実践仏教とは、さきに述べたような戒律持守と性相融会の仏教を指す。当時の仏教学界⿀«おいて、『楞厳経』の性宗と『成唯識論』の相宗の間を調和している学者は少なく、青年時代の智旭の周辺には見られないようである。智旭は『楞厳経』の教義によって、自ら坐禅の道へ進み、証悟し、遂に性相両宗の矛盾点を解決していたのである。すなわち、智旭は禅者の身分で律蔵を研読し、『楞厳経』を研講し、また一つの部屋に篭って「掩関」という禅の修行者としての生活を送ったのであるが、そのうち重病にかかり、禅の修行では生死解脱の把握ができないので、永明延寿(九〇四ー九七五)の「有禅有浄土」という教訓を慕うようになるのである。

ところで、智旭の禅思想は当時の伝統的な正統の禅師から伝承したのではなく、直接に『楞厳経』にしたがうものである。それゆえ智旭の禅と中国伝統の禅宗とは、かなり異っている。唐宋以後の禅宗は公案を中心とするいわゆる祖師禅であるが、智旭の禅は仏説の経典を中心とするいわゆる如来禅である(3)。禅宗諸祖に対して、智旭は反発していないが、専ら公案に固執して経典を不用とする禅者に対しては、彼は生涯を通じて激しく攻撃した。

また、智旭の浄土思想も、従来の中国の浄土思想とはやや異ったものである。彼は四十九歳の時に『阿弥陀経要解』を著わした。これは彼の浄土思想を窺う重要な著述であるが、しかし彼の浄土思想に関する著作として最も重要なものはむしろ『楞厳経文句』の一節である『大勢至円通章文句』であろう(4)。従来の浄土思想といえば、阿弥陀仏の極楽浄土ヘの欣求であり、智旭自身も極楽浄土への往生を求めることを否定してはいない。しかし、彼の浄土思想といえば、極楽浄土の他力往生に比ベると、むしろ念仏三昧の工夫によって浄土に往生する自力的志向が強いように思われる。なぜなら、彼が誇りとする『大勢至円通章文句』に、念仏三昧ということについて詳論しているが、