明末中國佛教の研究 358

二 禅中心の教学と戒律思想

教学的禅思想


『楞厳経』中心の智旭は、あくまでも禅者であり、彼が最も尊敬した永明延寿(九〇四―九七五)と紫柏真可(一五四三ー一六〇三)の二人は、ともに禅宗系統の人物である。彼は三十二歳から天台の教観に私淑したが、この天台私淑という勉学の目的は、禅宗の時弊を矯正するためであった。この点については智旭の資料に、次のような語が見えている。

出入禪林、目撃時弊、始知非臺宗、不能糾其紕。(「然香供無尽師伯文」。\宗論八ノ三巻六頁)

これは禅宗叢林の流弊を目撃してから、公案中心の祖師禅はただ外表の修行者であるのみならず、実に仏法を敗壊するものであることを知った。そして、この流弊を矯正するために、天台の教観を用いなければその方法がないと明らかに述べている。また次の資料にも、これと同様な意見が明示されている。

予二十三歳、卽苦志参禪、今輙自稱、私淑天臺者、深痛我禪門之病、非臺宗不能救耳。奈何臺家子孫、猶固拒我禪宗、豈智者大師本意哉。(「示如母」の法語。\宗論二ノ五巻一四頁)

この文より窺えることは、二十三歳頃から禅宗の行門で修行していた智旭が、後に天台に私淑した原因は、天台教観によって禅の諸病を救援せんとしたためであった。しかし、彼自身は依然として禅宗の人であり、禅者たる彼は天台教観を禅宗に引用したが、当時の天台学者はなお智旭の立脚する禅宗を固く拒否する態度を保持していたと記しているのである。

以上二件の資料によって見た智旭の禅者としての立場は、