明末中國佛教の研究 359

彼が三十二歳のとき天台学に私淑する以前であると見ても、あるいはそれ以後と見ても、いずれにしても禅者としての立場は、変らないと言い得る。しかしながら、智旭は種々な点で、従来の中国の禅者と異なった立場にある。祖師禅の禅者はいわゆる話頭公案の禅修行に従事する以外に経典を研読するが、『般若心経』・『金剛般若経』・『楞伽経』など極少数のものであり、智旭のように天台教観を禅宗に導入するということは、当時の伝統的禅者には絶対に不可能なことであった。智旭は天台に私淑する前にも、すなわち、三十歳頃に著わした『白牛十頌』において、すでに天台学の円教修証の六卽(1)を用いて禅宗の十牛図に配置して解釈し、かつ禅宗の十牛図を『法華経』の大白牛車喩の唯一乗思想としている(2)。

戒律重視の禅思想


智旭が従来の中国の禅宗学者と異なるところは、また生活軌範においてもその特徴がみられる。祖師禅の修行者の生活軌範は、百丈懐海(七二〇ー八一四)の清規によって禅苑生活の規則とした。この清規はインド仏教の戒律条文に対して、中国の社会背景によってできた中国的僧団規則であり、インド伝来の戒律条文に対する禅宗の諸祖の態度は、否定的ではないが、生活実践の依拠としていない。これに対し、智旭は禅者の立場にありながらインド伝来の戒律を宣伝し、戒律を一切仏法の共同基盤であると強調したのである。彼は二十七歳より三十一歳までの四年間に、五百巻余にのぼる律蔵を三遍にわたり精読したが、三十歳の第二遍閲読終了の折には、すでに四冊の『毘尼事義集要』を作成し、戒律研究の成果を纒めている。そしてここで注意されることは、智旭の戒律思想は、禅宗の学者であっても、必ず戒律を受持すべきであると主張していることである。

大小乗混融の戒律思想


ところで智旭の戒律の研究は、従来の中国の律宗学者とは相違を示している。中国の律宗学派には、唐の南山道宣・相部法励・東塔懐素の三派がある。しかし、明末までの仏教界が依憑したのは、ただ南山道宣の『四分律刪繁補闕行事鈔』十二巻と『四分律刪補随機羯磨』二巻のみである。これに対し智旭は、