明末中國佛教の研究 360

次のような三つの意見を示している。

まず、①『重治毘尼事義集要』巻首の文に、

義浄獨宏根本、懐素但遵四分、皆謂不應會通、蓋恐彼此逃托、捨遮取開、就輕避重也。今倣南山意旨、為之會通、意在理優則用、實非趨避取捨、擬集衆部之大成。雖懐素譏訶、自大有所據、而宣公律學、亦未可全非。(卍続六三巻一六八頁AーB)

とあり、ついで②『重治毘尼事義集要』巻十一の文に、

随機羯磨則明一百三十四法、單白三十九、白二五十七、白四三十八、又對首三十三、心念十四、共有一百八十一法。雖詳盡作法科條、未免犯非制而制、所以懐素律師、毎多致議。不如但遵原律之善也。(卍続六三巻二五五頁C)

とある。そして、③「法海観瀾自序」の文に、

夫大小両乗、皆首戒律、而大必兼小、小不兼大。南山不敢自稱大乗、不應以南山名宗。(宗論六ノ四巻二四頁)

とある。これらの資料にあらわれた智旭の戒律思想は、四分律の唐代三派のうちに一つ、相部法励のことには触れていない。道宣と懐素および後に『根本説一切有部律』を翻訳し、また宣揚した義浄三蔵の三人を挙げて論評している。その三人の中、懐素は専ら『四分律』を宗とし、義浄は専ら『根本説一切有部律』を闡揚し、ともに余部律との会通に応ぜず、ただ南山の道宣のみ、『四分律』を中心としながら余部の律書を利用し会通している。この点において智旭は、道宣の態度に共鳴し道宣の意旨を継承するものである。しかも、懐素が道宣をどんなに譏訶しても道宣の在り方は実に根拠があるとして、その立場を支持している。だが、道宣に対する智旭の反論もみられる。すなわち、道宣の『随機羯磨』に対して、智旭はその著「八不道人伝」においても、「随機羯磨出、而律学衰、如水添乳也。