二 明末の天主教の流行
知識人と天主教
明に至ると、ヨーロッバでは宗教改革運動が起こり、ローマ天主教の内部にも、改革の要求によって、いわゆるイエズス会が一五四〇年に発足し、東洋の諸国に向かってその教線を伸ばしてきた。まずインドに、ついで明の嘉靖三十一年(一五五二)に、ザビエル(Xavier)が中国広東省澳門西南三十里にある三竃嶋にきて歿した。その次に、イタリア人の利瑪竇が、神宗の万暦九年(一五八一)に、広州の香山澳に上陸して、万暦二十九年(一六〇一)に北京に入り、神宗帝に会見を求めた。このことについては、『明史』巻第三百二十六「外国伝」第七の意大利亜条に、次のように記載している。
萬暦九年、利瑪竇始汎海九萬里、抵廣州之香山澳、其教遂沾染中土。至二十九年、入京師、中官馬堂、以其方物進獻。…(中略)…帝嘉其遠來、假館授粲、給賜優厚。公卿以下、重其人、咸與晉接。瑪竇安之、逐留居不去。以三十八年(一六一〇)四月、卒於京、賜葬西郭外。(臺灣開明書店鑄版『明史』七九二二頁C)
このイエズス会の伝教師利瑪竇は、中国の南方に上陸し、その後二十年にわたって布教宣伝をするうちに、中国の文化思想と風俗習慣を見学し、ことに儒教の古典を懸命に勉学して、中国風の天主教義を説き、中国の士人たちの好感を集め、その後にようやく神宗帝の謁見を求める周到さであった。神宗帝はこの東西の学問を兼ねて優れた遠来の客を励ますために、相当優厚な給賜を与えた。そして、中国の士人階級の公卿たちも、利瑪竇と交際して、東西文化に関する意見と知識をかわすうちに、親しい関係を進めていった。すなわち、このことは中国における現代文明の啓蒙時代を齎したのである。