明末中國佛教の研究 361

」と激しく評撃している。その理由はさきの②の資料にみられるように道宣が仏制の百一羯磨をあらたに整理して百八十一法とすることにより、「非制而制」の戒律原則を犯すからであるというのがその理由である。この道宣の『随機羯磨』に対し懐素はすでに異議があったが、智旭も原律の規定を遵守する方がよいと主張している。

なお智旭の戒律思想は『梵網経菩薩戒』に基づくものであり、大乗菩薩戒の立場に立っていえば、戒には摂律儀戒・摂善法戒・摂衆生戒のいわゆる三聚浄戒(3)があるが、小乗の七衆律儀は、僅か大乗戒の中の律儀戒だけである。そこで大乗の戒律であれば、必ず小乗の戒律を兼ねている。これに反し小乗の戒律は大乗菩薩の戒律は存しない。よって智旭の立場としては、南山道宣の四分律宗は、完璧な律宗と認めず、律宗なら必ず大乗戒律を含むべきであるとしている。それ故、智旭は道宣の『四分律刪繁補闕行事鈔』に対する具体的な批判を、彼の『重治毘尼事義集要』で為している。この著作中において、どの比丘戒の条文を註釈するにも、必ず菩薩戒と対比対釈している(4)。これは智旭の戒律思想の特色というべきであろう。そして、彼の思想全体を考察すると、このような戒律思想、すなわち、菩薩戒と比丘戒を同一とする考え方は、彼の二十代の終り頃にすでにできていたであろうと考えられる。

青年期著作の思想的表出


智旭における三十代は思想形成の前期として、頗る重要な関鍵であるというべきであるが、それ以前の二十三歳よりの七年間には、願文・書簡・詩偈等の短篇の文章がある。たとえば、「四十八願」の願文と「寄母」の書簡には、浄土思想を示しており、「受菩薩戒誓文」の願文と「上闍黎古徳師」および「答茂林律主」の書簡には、大小乗の戒律思想を明白にしている。かくて三十歳になって始めて『梵室偶談』と『白牛十頌』二篇の比較的長い文章を残している。これは禅思想と教学思想をあらわすものである。その上、当時天台宗碩匠幽渓伝燈の弟子である帰一受籌が、この頃智旭の親しい善友となっている。このことは、