七巻の『毘尼事義集要』、一巻の『重定授菩薩戒法』・『梵網経懺悔行法』・『占察経行法』・『大小持戒犍度略釈』・『消災経略釈』・『盂蘭盆経新疏』、八巻の『梵網経合註』などである。これらの著書はほとんど大小乗の戒律に関するものである。しかし、この中の『占察行法』と『盂蘭盆経新疏』は戒律ではないが、『行法』は律儀より派生したものであり、『盂蘭盆経』は地蔵経群の地獄思想と孝道思想に関するもの(1)で、また、『梵網経』の孝道思想と関連しているものである。いわば、この段階の智旭は、破戒の罪業観を中心として、戒律を鼓吹すると同時に地獄思想と孝道思想の多面性が存するのである。そこで、この時代の智旭の思想は、実は『占察経』・『盂蘭盆経』・『梵網経』の三部経典を中心とする時代であるとみることができる。

占案経中心の性相融会論


ところで、この段階の智旭は、なお千巻余りの蔵経を読んでいたが、彼の思想に影響を及ぼしたのは『占察善悪業報経』と『宗鏡録』であったと思う。智旭の『占察経義疏』の跋文に、彼が『占察経』を読むに至った因縁について、次のような記載が見えている。

憶辛未(一六三一年三三歳)冬、寓北天目、有雨海居土、法名弘鎧、向予説此占察妙典、予乃倩人、特往雲棲、請得書本、一展讀之、悲欣交集。(卍続三五巻九九頁B)

これは智旭が三十三歳の冬に、始めて温陵の徐雨海居士(2)の話を聴聞し、自ら求めて『占察経』を杭州の雲棲寺で入手するに至った。そして開巻し読んだ結果、悲しみと喜びの両種の感情が生じたというのである。すなわち、この経に説かれた衆生の罪報は、悲しいことであり、また二種観法と三種輪相の懺法においては、欣喜すベきことであるという。三種輪相の懺法においては、智旭は『占察経行法』一巻を編成し、かつ実践している(3)。また二種の観法とは、唯心識観と真如実観ということであるが、この二種の観法の説が智旭に恵みを与えた点は多い。すなわち、