明末中國佛教の研究 365

律・教・禅・密・浄土の五類があり(7)、天台と華厳の二宗を性宗に、唯識を相宗に、この両者をあわせて教といい、禅宗は中国の晩唐以後の最大な主流仏教であることから、智旭はここで禅宗を性相の二流と併せて論じている。

智旭はこの二種の観道をもって、唯心識観は『成唯識論』の唯識観と解釈し、真如実観を『楞厳経』の如来蔵妙真如性の観法と解釈している。この解釈は彼が二十三・四歳頃、『唯識論』と『楞厳経』における性相矛盾に突き当ってから、ここに到って始めてその性相融会の理論依拠を発見したと見ることができる。

宗鏡録中心の教学思想


智旭の教学思想に対して有力な影響を与えた者は、彼と同時代の人物ではなく、宋初の智覚禅師永明延寿(九〇四ー九七五)である。伝説によると、延寿は天台山国清寺において、『法華懺法』を行じたとき、たまたま夢で感ずるところがあり、智者大師の禅院に上りて二つの鬮を作り、一を一心禪定とし、他を万善生浄土として冥心清祷してこれを拈したところ、七度にわたって万善生浄土という鬮を得たといわれている(8)。智旭の『占察経玄義』および「十八祖像賛」にもこのことを叙述している(9)。そのうえ智旭自身三十二歳の折に、この拈鬮をまねて、賢首・天台・慈恩・自立宗の四鬮の中から、天台の鬮を得ているのであるから、三十二歳頃の智旭は、すでに永明延寿の人柄に関心を持ち、かつ『宗鏡録』を閲読していたと思われる。そして彼は『宗鏡録』に対し、次のように述べている。

藉天台・賢首・慈恩為準縄。蓋悉教網幽致、莫善玄義、而釋籤輔之。闡圓觀真修、莫善止觀、而輔行成之。極性體雄詮、莫善雑華、而疏鈔・玄談悉之。辨法相差別、莫善唯識、而相宗八要佐之。然後融入宗鏡、變極諸宗、並會歸於浄土。以此開解、卽以此成行、教観並彰、禪浄一致。(「示真学」。\宗論二ノ一巻六頁)

この文献の作成年代は明確ではないが、智旭三十八歳以前の作品であると思われる。彼は一生の中に、