明末中國佛教の研究 369

このほかに『楞厳経』の「念念」、『悟性論』の「一念心」、特に『華厳合論』の「当念」およぴ「一念」(2)、並びに『宗鏡録』の「一心」「念念」「心心」などの説を参考とし統合して、始めて智旭の現前一念心という新観念を引き起したのである。

ここで説明しておきたいのは、『宗鏡録』にも「一念心」をよく使っており、『華厳合論』の『一念相応一念仏、一日相応一日仏。」という語句をそのまま引用し(3)ながら、さらにこれを、新たに「自心念念常有仏成正覺」(4)と、表現を変えていることである。智旭はまた『宗鏡録』からこの「一念相応一念仏、一日相応一日仏。」という語句を引用し、しかも「一念相応一念仏、念念相応念念仏。」と、表現を変えているのである(5)。ともかく、智旭の現前一念心という説は、以上に列挙した五種の経論著述との間に、緊密な思想関係をもつのである。したがって、著者は荒木見悟氏の『明代思想研究』第十二篇の主張、すなわち、智旭の「現前一念心」の哲学が、王陽明の心学を受けて成立したものだという説(6)には、納得し難い。

現前一念心の定義


原則として智旭の現前一念心と『摩訶止観』の介爾一心は、同様に只今の第六意識である刹那変易の妄念心である。天台大師の「介爾心」は、その当下の一念の中に十法界の性質を具足している。これは、いわゆる十界互具の心、また三千性相を具足する心である。この思想の源流は、『法華経』と『華厳経』を中心とするものである。智旭の「現前一念心」は、勿論天台大師の説を継承しているのであるが、『起信論』の「一心真如」説、さらに『楞厳経』の「如来蔵妙真如性」の説の関連とによって構築された卽真卽妄・非真非妄・亦真亦妄・亦非真亦非妄の心説である。我々の第六意識は、いうまでもなく刹那変易の妄心であるが、しかし妄心無体、体卽真如である。そこで妄念に自性があれば、すなわち如来蔵の妙真如性であり、または法性であり、仏性であり、あるいは自性清浄の実相と実性である。したがって、この現前一念心の性は、相にあらず、無相にあらず、