明末中國佛教の研究 370

ただ百界千如を一括するそのままの存在を意味している。もし、第六意識を単なる妄心と認識すれば、これは唯識宗の解釈であり、もし、真如心を単なる不変の真実心と理解すれば、これもまた相宗の観念であることになる。智旭の現前一念心の場合は、只今の妄念心は真如実性の不変随縁であり、却って真如実性はまた妄念心の随縁不変であると規定することが可能であろう。よって、この現前一念心をこのように認識すれば、天台。賢首・法相の三宗、または性宗と相宗との間にはどのような矛盾衝突もないということになるのである。

永明延寿の後継者としての智旭


天台・賢首・法相の三宗二流の矛盾点を始めて融会した人は、『宗鏡録』の集成者永明延寿である。したがって、智旭は禅思想としては紫柏真可(一五四三ー一六〇三)を慕い、性相融会並びに禅浄一致の思想では、永明延寿(九〇四―九七五)の後継者たることを自負した。彼(7)の五十六歳九月に著わした「閲蔵畢偶成」の詩篇に、

馬鳴・龍樹雖難企、智覺芳踪庶可尋。(宗論一〇ノ四巻一四頁)

と述ベて、彼の努力はインドの馬鳴と竜樹に及ばないけれども、智覚禅師永明延寿の芳軌と踪跡を尋ねることはできると自負心を披露している。

智旭が永明延寿の後継者と自認するいま一つの理由は、延寿が禅宗の法眼系に属する身分でありながら、台賢・性相の諸説を統一して浄土信仰に帰着せしめた学者であり、『仏祖統紀』には、しいて延寿を蓮社の第六祖として位置づけていることによると思われる。智旭もまた禅宗に基づく浄土行者であって、また天台教観を用いて性相諸宗の経論註疏を現前一念心説のもとに統一しているからである。