明末中國佛教の研究 38


また『明史』巻第三百二十六の「外国伝」第七に、当時中国にきた天主教の教師のことについて、次のような記載が残っている。

其國人東來者、大都聡明特達之士、意専行教、不求祿利。其所著書、多華人所未道、故一時好異者、咸尚之。而士大夫如徐光啓、李之藻輩、首好其説、且為潤色其文詞。故其教驟興。(同右七九二二頁D)

明末の万暦年間から清初にかけて、中国にきた天主教の伝教師の大多数は、聡明俊彦であったようで、その天主教の信仰を伝えるに専らで、官職・地位・財産などは、一切求めなかった。けれども、彼らが発表する知識と思想、技術は、中国人にとって、ほとんど初めて経験したもので、好奇心のもとに一時に大勢の人々が、天主教の伝教師たちを推崇した。たとえば、文定公徐光啓(一五六二ー一六三三)をはじめ、少京兆楊廷筠、太僕卿李之藻(?ー一六三〇)の三人が、「中国聖教の三柱石」として天主教の学者に礼讃されている(1)のは、その良い例であり、また、周子愚・瞿式穀・虞淳煕・樊良枢・汪応熊・李天経・鄭洪猷・憑応京・方汝淳・周炳謨・王家植・瞿汝夔・曹于汴・鄭以偉・熊明遇・陳亮采・許胥臣・熊士旂などの学者が、みな外国教師の訳著をたすけ、潤色の務めをなしているのもその一例である(2)。したがって、明末の天主教信仰は、急速に中国の上流社会の中に流行したといえよう。

天主教の伝道師


明末において、かかる天主教の味方は儒教であったが、敵対したのは仏教である。明末の仏教は、比較的盛勢を示しているので、仏教の教勢を抑えなければ、天主教の教練を速かに延すことができなかったからであろう。しかし、仏教の高僧たちも、立ち上ってこれに応戦した。中でも、智旭はその随一の応戦者である。よって、ここには智旭の『闢邪集』が出版されるまでに、中国に派遣されてきた外国伝教師の有名な人物を図表にして次に掲げて見ようと思う(3)。