明末中國佛教の研究 372

四聖法界の聖者ないし仏となると説くのである。これは『首楞厳経』巻第四に説かれた「背覚合塵」「滅塵合覚」(2)の理念と一致している。釈尊の一代時教が説かれる目的は、衆生に向ってこの「心」を転迷成悟させる使命のみであると受領している。したがって、衆生の立場でいえば、発心信仏の目的は、この「心」を開悟するということになるわけである。明末の中国における開悟の方法は、禅・教・律の三分類によるのであり、智旭はこの三類を仏心・仏語・仏行と理解しており(2)、仏心とは禅宗のこと、仏語とは天台・華厳・唯識の三宗のこと、仏行とは律儀であると配している。この三類の中心は、いうまでもなく禅宗という仏心であり、この仏心はすなわち現前一念心を指している。そこで彼は自ら「宗乗」という立場を採択し(4)、天台教派に対しては、門外であると表明していた(5)。この現前一念心の説を始めて論理的に表現したのは、智旭の三十七歳に著わした『盂蘭盆経新疏』である。この著書は彼の本体論の基礎となるものであり、また彼の思想形成過程の原型を為すものであると思われる。

梵網経中心の心体論


この段階において智旭が最も傾注した著作は、三十九歳に撰述した『梵網経玄義』一巻と、その『合註』七巻であると言える。彼が三十二歳の折に『梵網経』を註釈しようと試み、さらに天台の教観を研究し(6)、三十五歳の時にまず『梵網経懺悔行法』を編述し、三十九歳の五月十五日から七月三十日までの間に、この『玄義』と『合註』を完成している。これは智旭の戒律思想が、小乗律の事相戒から大乗律の心地戒に展開した結果であり、さらに事相の修行から理体の発揮に至ったことである。そして、これに加えて天台教観を用いて、戒律条文を解釈するに至ったとみられるのである。

天台智者大師には『梵網経』について、二巻の『菩薩戒義疏』がある。これに対して唐の明曠に三巻の再註釈した『刪補』があり、宋の與咸に八巻の『註』があり、明末の祩宏に五巻の『発隠』がある。しかし、智旭の著作には、