智者の『義疏』と祩宏の『発隠』のほかは触れられていない。この二書に対する智旭の論評は、抄録して挙げると次の如くである。

緬惟智者大師之時、人根尚利、故旣廣宣教観法門、乃僅疏此下卷戒法。而大師精諳律蔵、文約義廣、點示當年之明律者卽易、開悟今時之昧律者則難。千有餘年、久成秘典。我蓮池(祩宏)和尚、始從而爲之發隠。此其救時苦心、誠為不可思議。特以専宏浄土、律学稍疎、故于『義疏』、仍多闕疑之虚。又下巻?流通、而上卷猶未開闡。(「梵網経合註縁起」\卍続六〇巻三一〇頁A)

すなわち、智者大師は三大部と五小部の中でその教観思想を抒発しているが、この『義疏』の中においては僅かに菩薩戒法について疏釈するのみで、教観思想に関するものは存しない。そのうえ智者大師自身、律蔵を精諳する人であり、簡略の文句で甚深の義理を表現することは、当時の明律者を相手としてはそれでよいが、後世の昧律者を開悟せしめることは甚だ難しい。したがって、智者大師以来千余年間、この『義疏』は理解されずに秘典となっている。折しも、智旭の授戒和尚である雲棲祩宏が、この『義疏』の難解な処を註釈したのであるが、祩宏は浄土専門の高僧であり、戒律についてはやや疎いゆえに、『義疏』には闕疑のところが多く、ましてこれまでの『梵網経』におけるあらゆる註釈書は、全てその下巻について注したものであり、上巻に対してはいまだ闡発されていない。そこで智旭は、『玄義』と『合註』を作成し、上下の二巻を合せて註釈し、それらの欠陥を補充したのであると述べている。

智旭の註釈書と智者大師の『義疏』との異るところを述ベると、まず、智旭は①上下二巻の全書を、約教釈と観心釈の方法をもって全面的に教観並挙の立場から注釈を加え、また②大乗戒と小乗戒の比較をしている。次に、③五重玄義で『梵網経』を解釈するあいだに、諸仏の「本源心地」という語句を、『梵網経』の経体と解釈しており、