明末中國佛教の研究 374

この諸仏の「本源心地」とは一切世尊の証するところの最極清浄の常住法身であり、あるいは実相であり、あるいは法住・法位・一切種智・一実境界・中道第一義諦と名づけているのである(7)。智旭の『梵網経玄義』と『合註』の中には、現前一念心という語句の表現は見えていないが、実際には智旭がこの「心地」を「現前一念心」の観念として扱っていることは明らかである。たとえば、『梵網経玄義』に、

如此(法身。般若・解脱)三義、為一妙體。迷之則歴劫長淪、悟之則當下具足。(卍続六〇巻三〇八頁B)

と述べ、また同『玄義』に

既念念具足千法、亦法法互具無窮。聊示千百億界、以表心地法門耳。(卍続六〇巻三〇九頁D)

と述べている。すなわち、「梵網菩薩心地品」の「心地」の二字を諸法実相の三徳妙体と論定しており、なお十界互具・一念三千の「介爾心」または智旭が自ら発明した現前一念心と論定することは前項で論じた通りである。

梵網経註釈に関する智旭と智顗の異同


一方、智者大師の『義疏』の場合、その特徴を列挙すると、①下巻の解釈のみ。②教観思想に触れていない。③大小乗戒律を対比料簡することがある。④五重玄義を立てていない。⑤三重玄義の釈名・出体・料簡という三科だけである。⑥出体の中において、無作戒体を闡明するのみであり、理体とする本源心地のことは語っていない、という点が指摘できる。そして、『菩薩心地品』の「心地」の二字に対する解釈は、次のように為されている。

言心地者、菩薩律儀、徧防三業、心・意・識、體一異名。三業之中、意業為主、身口居次、據勝為論、故言心地也。(『菩薩戒経義疏』巻上\卍続五九巻一九二頁B)

この文によって、智者大師の解釈する「心地」の二字の意は、心・意・識のうちに、