明末中國佛教の研究 377


大哉、梵網經心地品之為教也、指點真性淵源、確示妙修終始。戒與乗而並急、頓與漸而同収。約本迹、則横竪倶開、兼華嚴・法華之奥旨。約観行、則事理倶備、攬五時八教之大綱。文雖僅傳一品、義實統貫全經。(卍続六〇巻三一〇頁A)

従来諸家の『梵網経』に関する註釈書は、僅かその下巻について、戒相条文を説明するのみであるが、智旭はそれらと異っており、『梵網経』の上下二巻を通じて、三十九歳までに戒律・禅観・教学に関する考え方を総合的に表現し、しかもこの註釈書の完成をもって思想成熟の境域に達したと見ることが出来る。その思想成熟以後に完成した著作が二巻の『大仏頂首楞厳経玄義』と、十巻の『大仏頂首楞厳経文句』である。

智旭の楞厳経研修


さきにも屢々述べたように、智旭の思想の立脚点は禅であり、禅思想の根本経典は『楞厳経』である。彼は二十七歳の折に、二回に亘ってこの『楞厳経』を講じ(2)、三十三歳の頃には楞厳咒壇を結し、百日の間にこの咒壇の中において、専ら「首楞厳咒」の持咒を行ない(3)、また、三十九歳の折には、『梵網経』を註釈すると同時に、この『楞厳経』の要旨を説いた(4)。当時述作した『壇中十問十答』のうちに、五・六・七・八の四題は、『首楞厳経』に関する問答である(5)。さらに、四十歳の折には、新安陽山の止観山房で、結夏安居の頃に四度目の講経を行ない(6)、翌年四十一歳に、ついに本経の『玄義』と『文句』の都合十二巻の優れた著書が脱稿された。彼の思想はこれを契機として戒律思想より一歩進展し、本格的な教学思想がここに開華したのである。

中国における楞厳経の流行


中国における『楞厳経』の流行について、常盤大定氏は、以下のように語っている。「『楞厳経』は、中唐以後において、初めて教界の表に現われたる最新の経典文学なり。居士房融筆受という点と、華・天・密・禅の調和を骨格とせる点と、加ふるに文章絶妙の点とにおいて、非常の流布を見たり。