明末中國佛教の研究 378

唐代における註釈は三種に過ぎざれども、宋代に至りて俄に多数の研究者を出し、華厳・天台・禅の三宗学者、各々自己の宗義によりて、之を解釈せしも、次第に禅家の経典と見らるるまでに、禅家の間に翫味せられたり(7)」と云い、さらに「されば、宋儒の学説を適当に理解せんには、少くも楞厳経一部を読まざるベからず(8)」と強調している。なぜなら、唐の『復性書』の著者李翱を始め、宋儒の張横渠・程明道・蘇東坡・王安石・張商英などの人物は、いずれも『楞厳経』の研鑽者であり、ことに王安石と張商英の二人は、『楞厳経』を刪訂・註釈している。この原因は、宋儒の学説と仏教の禅思想との間で密切な関係を持ち、中唐以後とくに宋初以来の中国禅宗において、華厳宗第五祖圭峰宗密の『禅源諸詮集』または『禅蔵』、並びに永明延寿の『宗鏡録』の影響(9)によって、『円覚経』と『楞厳経』を珍重・研鑽することが、益々盛んになり、それ故に、宋代の儒教学者は、禅思想を研究するうちに『楞厳経』を無視することが出来なくなったのである。常盤氏の意見によれば、『楞厳経』は中唐以後の華厳・天台・密教・禅宗を調和する骨格となっていると説かれているが、具体的に証拠を挙げれば、おそらく宗密の『禅蔵』等の著作および延寿の『宗鏡録』が最も影響力を持ったものであると思われる。

智者大師西拝楞厳経の伝説


従来、智旭を天台宗の学者と見なす説がある。よってここでは検討の一部として、天台宗と『楞厳経』との関係を検討して見たい。

宋の慧洪(一〇七一ー一一二八)著『林間録』巻下に、天台宗の講徒が、智者大師は嘗って西に向って『楞厳経』を礼拝していたと語ったことを伝えている。すなわち、

天臺宗講徒曰、昔智者大師、聞西竺異比丘言、龍勝菩薩嘗於灌頂部、誦出大佛頂首楞厳經十卷、流在五天、皆諸經所未聞之義、唯心法之大旨、五天世主、保護祕嚴、不妄傳授。智者聞之、日夜西向禮拝、願早至此土、