明末中國佛教の研究 381

実は同じ第六意識のことを指すに他ならない。智旭はしばしば「随文入観」(6)を鼓吹しているが、経論およびその註釈書を研究しながら、必ずそれらの教えに従って、観行を実践すべきであるという。そして、観行の入門方法としては、必ず第六意識を観ずべきであり、もしこの第六意識の妄想心を転変して始覚である妙観察智あるいは無塵智となれば、すなわち円教名字位の菩薩となると説いている(7)。このような観心方法によって実践することを全性起修と称する。すなわち、彼によれば現前一念の妄想は、六塵の縁影にすぎないが、妄想無自性の自性は如来蔵妙真如性であり、我々はこの妄想心から真常心に転回することができるからである。したがって、真常心在纏のときは随縁不変という。染汚の三惑因縁に随って、十法界のどこに在っても、この本来清浄の妙真如性は少しも変らない。しかも、この清浄の真如心性を見思・塵沙・無明の三惑から解脱させなければ、不変の妙真如性を現わすことができない。観心修行の目差すところは、解脱三惑、顕現真心であり、これがすなわち全修顕性であるという。換言すれば、本来清浄・円満実在の如来蔵妙真如性は、智旭の現前一念心の性体である。すなわち、現前一念心は在纒の妙真如性であり、あるいは前六識と相応する随縁の如来蔵である。凡夫の立場から見ると、この在纒の如来蔵は実に不変随縁の真如である。この不変の真如体は、すなわち『華厳経』の一真法界、『法華経』の一乗実相、『維摩経』の不思議解脱、『般若経』の一切種智、『涅槃経』の常住仏性である(8)。つまり諸経の体であり、諸法の体である。それ故、智旭は『法華経』の「開示悟入仏之知見」とは、この現前一念心の体性を証悟することであると明らかに語っている(9)。

異名異説の修道統一論


智旭の説く我々の現前一念心の体性は、『楞厳経』の妙真如性、『楞伽経』の妄想無性の性、『成唯識論』の円成実性、また『大乗止観法門』の三性三無性の性である。これは実は天台宗の性具と性造の性であるという見解であり、智旭の著作においてよくみられるところである。凡夫の衆生として、