明末中國佛教の研究 387

一心不乱の三昧功徳を目差すことは念他仏であるという。もし自ら自身の現前一念の心をよく観想して無体無相・離過絶非、しかも百界千如・法爾具足という不可思議の理境を証悟するところを念自仏という。もし心・仏・衆生の三無差別という義を理解し得たら、衆生は諸仏心内の衆生であり、諸仏は衆生心内の諸仏であることが認識できる。これは「是心作仏、是心是仏」ということで、これが自他仏倶念であるという(5)。この三種念仏は天台宗の四教に約していえば、十二種の念仏三昧になるのである。念仏の目的は、生死解脱、それも三界超出であり、三界離脱においては、豎出と横出の二類が立てられる。右の三種念仏あるいは十二種念仏三昧は、あくまでも禅観に類似する豎出三界の法門にすぎず、横出三界の勝異方便は、この三種念仏の法門にはいまだ含まれていない。

横出三界の勝異方便とは、『阿弥陀経』に説かれた称名念仏である(6)。竪出三界の念仏三昧は、禅観の自力修行によって漸次に三惑煩悩を断じ、三身四土を次第に感得することであり、横出三界の称名念仏は、阿弥陀仏の本誓願力によって極楽世界に接引往生されていくことである。そして、自力の豎出三界の法門は、「事難功漸」であるが、他力の横出三界の法門は、「事易功頓」の不思議勝異方便であるという(7)。智旭自身は、念仏三昧の鼓吹に力を尽した(8)が、それは五十歳以前に禅・教・律一致論の立場から主張したことで、晩年になると、浄土教の色彩がより一層濃くなって、他力往生の横出三界の勝異方便に没頭するようになるのである。

四種浄土


前述のように、浄土法門においては、豎出三界の自力法門と横出三界の他力方便があるが、智旭の見解では、自力と他力、あるいは豎出と横出のいずれも、浄土法門であることに違いはないとし、そして彼の仏教信仰の帰着点は浄土信仰であるということになる。

さて、浄土説について、智旭は四種浄土の説を取っており、天台大師所立の①凡聖同居土、②方便有余土、