明末中國佛教の研究 394

中国においてまず『楞伽経』と『占察経』が訳出または成立した後、『起信論』が始めて出てきたといわれている(7)。智旭の註釈順次も『占察』と『楞伽』の二経が『起信論』よりも先んじている。しかし『占察経』に関しては、すでに本章第二節に論述したので、ここでは略したい。

智旭が『楞伽経』註釈に際して最初に気づいた点は、当時の禅者達が宋訳『楞伽経』巻第四にある「法離文字」と「依文字者、自壊第一義」(8)という経義を誤解して、経典を排斥ないし誹謗しているという点にあった。智旭はこれを矯正するために、「解脱不離文字」(9)という主張を打出し、『楞伽経』巻第二にある「如来禅」(10)の思想を挙揚し(11)、それに理論の根拠として「初祖伝道、『楞伽』印心」(12)の歴史事実を列挙したのである。なお、『楞伽経』巻第三に、「宗通」と「説通」(13)の教義が説かれており、宗通とは言説・文字・妄想を遠離することで、説通とは九部経の種々教法を説くことである(14)。これを禅宗の立場でいえば、坐禅と参究は「宗」であり、「宗」とは文字・言説などの施設を一切不要とするので、直ちに真如仏性に悟入することである。また読経・説教は「説」であり、修行者としては教義をただ研究演説するだけで、真如仏性を悟る上に役にたたないのみならず、却って邪魔なことであると見ている。そこで大多数の禅者は、教理の研究に対して、反対の態度を示したのである。これに対する智旭の解釈は、『楞伽経』の宗通と説通の両説は二分されるべきものではなく、自行の修証に約して宗通となし、化他の方便に約して説通となすのである、と見做しているのである(15)。そして、智旭の理想的仏教者とは、「宗説倶通、解行雙到」というような人になることであり(16)、これは彼の三十代の著作に、すでにみられる見解である。

楞伽経における性相融会論


四十代頃の智旭は、『楞伽経』巻第二にある「妄想無性」(17)という説を、彼の現前一念心と解釈したのである(18)。彼はこの「妄想無性」観、すなわち、『占察経』の「唯心識観」と認識し、