また『楞伽経』の経体である「自覚聖智境界」・「如来蔵自性清浄」・「無我如来蔵」など三十種に達する異名を、『占察経』の「真如実観」と解釈している。それにこの『楞伽経』にある三十種の真如実観の異名を、『楞厳経』の「如来蔵妙真如性」、『梵網経』の「本源心地」、『占察経』の「一実境界」、『法華経』の「諸法実相」などと同一のものと見ている(19)。よって彼は、『占察経玄義』において、結属十界の六卽義の説明に当り、『楞伽経』巻第四の「如来蔵是善不善因、能徧興造一切趣生」(20)の義を引用している。また彼は、『楞厳経文句』巻第二において、経文の「心性」という理念を解釈するに際して、『楞伽経』巻第一の「自心現量」という説を引用している(21)。さらに、彼の『起信論裂網疏』巻第二の「離言真如」を解釈するのに、『楞伽経』巻第一の「自覚聖智」の究竟相を援用し(22)、また同『裂網疏』巻第五では、『起信論』の対治邪執という理由を説明するのに、『楞伽経』巻第二にある「当依無我如来之蔵」という論点を引用している(23)。つまり、『楞伽経』の自覚聖智や、無我如来の蔵は、離言説・離文字の真如心である。但し、真如不変随縁の場合には、人と天の善趣と地獄・鬼・畜等の悪趣、または四聖法界の善と六凡法界の不善を変現するのである。これによって、如来の蔵は、善と不善の因なりという。また、真如随縁不変の場合から考えれば、この不変の真如は、自性清浄の如来蔵である(24)。何れにもせよ智旭の『楞伽経』の取扱いかたは、禅宗および『占察経』の二種観道と繋がるものであり、また唯心と唯識、あるいは性宗と相宗の調和論を説く経典であると理解している。『楞伽経』の「唯心直進」(25)と「自覚聖智」という理念は性であり、「妄想無性」の妄想である八識と我法二執は相であり、五法・三自性・八識・二無我の教義言説は、すべて相に属するものであると理解している。仏がこれらの法相を説く目的は、その無性の妄想を理解せしめ、無我如来蔵である自覚聖智の悟得をさせるためであるという。結局、『楞伽経』の立論方式と起信論の立論方式は共に、性相融会または性修不二の観点に立脚していたと見做しているのである。