明末中國佛教の研究 396

起信論の立場における性相融会論


『大乗起信論裂網疏』は智旭の五十代晩年の力作であり、その目的については、『裂網疏』の序文に述べている。すなわち、『楞厳経』の立場において、『起信論』を性相融会説の主要典籍と考え、『宗鏡録』の論点によって『起信』と『唯識』の二論は、ともに『楞伽経』の宗経論と理解している(26)。そして、賢首法蔵とくに圭峰宗密の教判である「馬鳴起信、是終教兼頓、並未是円」という見解に反発する(27)と同時に、「馬鳴・護法、決無二旨」という性相不異論を強調している(28)。なお、馬鳴の『起信論』を竜樹と世親の思想に超越させ、竜樹の般若思想を「随智説」、世親の唯識思想を「随情説」と解釈し、それに対し『起信論』の心真如門は「随智説」であり、その心生滅門は「随情説」であると見做している(29)。事実上、『起信論』こそ、随智と随情、あるいは性宗と相宗の根本思想を兼備していることになるわけである。それ故、智旭はこの『起信論』を「性相総持」(30)といい、「円極一乗」(31)の論書と絶讃していたのである。

さて、『裂網疏』において論及した性相調和論の点は多い、ここではその代表的な四点を掲げて見たい。

本覚始覚の唯識解釈  これについて、『裂網疏』巻第二に、

良由無漏種子、本自有之、故名本覺。四智心品、初起現行、故名始覺。(大正四四巻四三二頁A)

と述べている。すなわち、もとより無漏種子であるから、これを本覚といい、心意識の八識心王が、始めて四種智品にかわるを始覚というのである。したがって、『起信論』の本覚・始覚の説と『唯識論』の無漏種子・四智心品との間では、異名同義のことであるにすぎないと見做しているのである。

真実空と真実不空の唯識解釈 『起信論』の真如における真実空・真実不空の説と唯識思想の対釈について、『裂網疏』巻第二に、