『唯識論』巻第二の「(真如)堅密故非所熏」(39)の文では、真如と識の定義が堅く区別されており、また窺基の『唯識述記』巻第三にこれを解釈して、「亦遮無為、以堅密故、不受熏習、如堅石等」、「無明熏真如、由此知非也」(40)と語っており、『起信論』の真如受熏説を明白に否定しているのである。つまり、『唯識論』の立場の真如は、凝然不動的ものであり、八識から転変してできるものではないということである。これに対し『起信論』の立場の真如は、諸心意識の体であり、妄心が清浄になってからの心体はすなわち真如であるという。これらを考えると、『唯識論』と『起信論』の基本点は、確かに喰違っているが、智旭の融会説は、あくまでも性宗の唯心派の立場にあるものであると見ることが可能であろう。
一性皆成説と五性各別説の調和 この問題については、性宗と相宗の間には根本的な差異があり、周知の如く盛んに論じられて来たところである(41)。相宗は五性各別の観点をもっており、性宗は一性皆成の場合に立っている。五性各別とは、声聞・縁覚・菩薩・決定(成仏しない)・不定の五種根性が差別しており、衆生のうち或者は決して成仏しないと説くものである。これに対し性宗側の意見は、「一切衆生、皆有仏性」の説を堅持しているのである。これについて、智旭は性宗の立場に立脚して、この二説を調和せしめたのである。彼の『楞伽経義疏』巻第一(42)、『唯識論観心法要』巻第九、並びにこの『裂網疏』巻第四の三箇所に、このことを論述している。ここにその二箇所の論点を左に抄録しておく。
まず『大乗起信論裂網疏』巻第四に、
瑜伽依此、權立五性差別、以其無明煩惱尤厚、覆無漏種、雖有而竟似無故也。(大正四四巻四四六頁C)
とあり、また、『成唯識論観心法要』巻第九に、
然依瑜伽師地論等、則一切衆生、定有五性差別。若依法王経・如來蔵經等、則一切衆生、定無五性差別。當知、