このことから当時の受験生にとって八股文の毒害が、秦の始皇帝の焚書と坑儒の程度よりも酷かったことが知られ、またこれに続いた文章から受験生の登士者の中には史冊名・朝代先後さえも知らない人があったことも知られる。それ故、顧炎武は『日知録』巻第十七、「生員額数」においても、
故敗壊天下之人才、而至于士不成士、官不成官。兵不成兵、将不成将。夫然後寇賊奸究、得而乗之。敵國外侮、得而勝之。(世界書局印行『日知録集釈』三九六頁)
と述べている。すなわち、八股文の考試制度の毒害という原因によって、政府に登用される官吏は、みな学問空疎・才能欠乏の人ばかりであったことを述べ、政治の腐敗・武備の衰微・文教の停滞および社会経済の破綻は、必然の帰結であったと論じている。
さらに顧氏は『日知録』巻第十六、「経義論策」において、神宗の万暦年間における官吏の無能の酷さを次のように痛論している。
科名所得、十人之中、其八九皆為白徒、而一擧于郷、卽以營求關説、為治生之計。在州里、則無人非勢豪。適四方、則無地非遊客。欲求天下安寧、斯民淳厚、如郤行而求及前人。(世界書局印行『日知録集釈』三八三―三八四頁)
これによれば、科挙の考試制度によって登用された公務員は、本来の知識人ではなく、ただその規定された八股という文章における内容・韻律・形式の摸擬を覚えただけにすぎなかったことが知られる。彼らは政治・文学・哲学・経済。軍事等に関する学問を具えているわけではないので、何等の政治思想も政治理想も持っていなかった。たとえば、郷里で試験に受かることができると、自分自身生計を豊かに営もうとする以外に、他の人々の福祉等は考えようともしなかった。もし州里で権力を得れば、卽ちその地方の豪族となり、各地に遊歴してその権力を肥大させた。