これは彼が「随文入観」(1)、「随文入証」(2)又は「解行相須」(3)などの主張を打出したことによって窺われる。たとえば、『盂蘭盆経新疏』に彼は五重玄義を分科解釈するのに、「就事」と「観心」の二科のみを設けている。そのうえ、彼が四十九歳の時に作成した『成唯識論』の註釈書には、観心釈だけで『唯識論』を註釈し、『成唯識論観心法要』と名づけているのである。なぜ、このような方法論を用いるに至ったかは、先述したように、彼が「随文入観」を強調しようとした点にあり、これは禅宗の「暗証無聞」と一般習教者の「数他家宝」という両者の弊病を矯正する目的であると思われる。さらに、彼の現前一念心という思想に立脚して相宗と性宗の矛盾を融会するために、この「心」を中心としてバランスを取らなければならなかったからであろう。相宗は心相の面にあり、性宗は心性の面にあって、現象界の心相と本体界の心性は、いずれもこの現前一念心を離れることではないのである。そして、性相融会論の目的を達成するために、智旭は天台教学中の「観心」説を大いに依用したのである。

真如随緣思想


智旭の「観心」説と天台宗の思想との間には少しく差異が認められる。智旭の観心説は、真如の随縁不変を心性といい、真如の不変随縁を心相といい、心性と心相を往§と修の一体の二面と見做している。性修不異とは、すなわち、性相融会の理論根拠であり、性修不一とは、すなわち、真如随縁の理論と一致しているのである。観心の作用は、この性修不異と性修不一の理を証悟するわけであり、もしこの性修の不一また不異の理を証悟するならば、少なくとも名字位中の円教仏眼が開けた人となるとするのである。これは天台教学に違背していないが、真如随縁の説はもともと『起信論』の思想であり、智者大師の教義ではない。『起信論』を重視したのは、天台宗よりむしろ華厳宗の方が早いのであるが(4)、賢首法蔵(六四三ー七一二)・圭峰宗密(七八〇ー八四一)および長水子璿(九六四ー一〇三八)の三人とも、この『起信論』を円教とは位置づけしていない(5)。天台宗においては、