教観綱宗の命名
『教観綱宗』という書名も、智旭思想の一つの特色であると言うべきである。この「綱宗」という命名に対して、一般学者は、綱要または大綱と見做しているが、智旭はかなり違った見解を示しているのである。智旭は「綱要」を使うところもあり(5)、また「大綱」を使うところもある(6)。しかしながらそれらは決して「綱宗」の意味ではない。彼が綱宗という言葉を使ったところは色々あるが、暫く例として次の八点の資料を挙げで見たいと思う。
- 「安居前供鬮文」に、「禅道迷綱宗、流入一機境」。(宗論一ノ二巻一四頁)
- 「示石耕」に、「参禅則截断偷心、直明本性、識取綱宗」。(宗論二ノ四巻一六頁)
- 「毘尼事義集要縁起」に、「思樂土可歸、羨蓮師而私淑。綱宗急辨、毎懐紫柏之風」。(宗論六ノ一巻二頁)
- 「答卓左車弥陀疏鈔三十二問」の第二十五に、「苟昧綱宗、死在句下、謂参話方能悟道」。(宗論三ノ一巻一〇頁)
- 「復松渓法主」に、「近述法華會義、因留都久染知音、大窾酸臭気味、絶不知權實綱宗、況得観心悉壇四益」。(宗論五ノ二巻一四頁)
- 「霊巌寺請蔵経疏」に、「適欲先註梵網、提律學綱宗」。(宗論七ノ三巻五頁)
- 「与周洗心」に、「圓通章文句、盡収念佛三昧綱宗」。(宗論五ノ一巻二五頁)
- 「答卓左車茶話」に、「上堂則超佛越祖、接衆則權引中下。此流俗宗匠、未悟心法者、所以必墮之窠臼、致禅・教・律・及浄土諸法、倶失綱宗、倶成實法」。(宗論四ノ一巻一〇頁)
以上八点の資料を調べてみると、一から四までの例は禅道綱宗であり、五番目は天台の教観綱宗、六番目は律学綱宗、七番目は浄土綱宗、八番目はそれらの総結とする禅・教・律・浄土の綱宗といわれている。これらの綱宗という名称は、一体どのような意味をもっているのであろうか。第八番の資料には、「心法」という語をはっきりと示しているが。この心法とは、勿論智旭の現前一念心であるというべきものである。この一念心の心法が「宗」の内容的な意味になることについては、すでに明確であると思われる。すなわち、これは『宗鏡録』の「宗」という義を継承するところで(7)、「宗鏡」二字の出典は、『楞伽経』と『楞厳経』から取意したものである。なぜかというと、『宗鏡録』巻第五十七には、明らかに次のように依拠する所を述べている。
上來所引二識・三識・八識・九識・十一識、不出一心宗。所以楞伽経云、一切諸度門、佛心為第一。又云、佛語心為宗、無門為法門。(大正四八巻七四二頁C)
このうち、「一心」とは、主として如来蔵心である。如来蔵心は仏心・衆生心の本であり、一切の経典聖語はすべてこの心法から流れ、また経典聖語によってこの心法を証悟するわけで、聖なる仏も、凡夫である衆生も、いずれもこの心法を中心としている(8)。これが「宗」ということである。「仏語心為宗」という表現は、