この『教観綱宗』によってその義理甚深の点を三十九目に分けて、それぞれ明解するところであり、この中に従来天台教学にないものが見られる。たとえば、第六目に『楞厳経』の「常住真心性浄明体」(1)という理念をもって、天台の「対半明満」(2)の義に釈しており、第九目に『宗鏡録』巻第一の波・水・湿性の譬喩(3)によって、天台の「権卽実家之権」および「実卽権家之実」の義に釈し、第十二目および第三十九目には、現前一念心がある。さらに、第二十二目に、『大乗止観』の空如来蔵と不空如来蔵(4)をもって、「両種含中二諦」を釈している。なお第十二目の「思議生滅十二因縁」を説明するところで、唯識の義によって解釈して欲しいと主張している。そしてこれが『教観綱宗』の特色であると思われる。

教観綱宗の命名


『教観綱宗』という書名も、智旭思想の一つの特色であると言うべきである。この「綱宗」という命名に対して、一般学者は、綱要または大綱と見做しているが、智旭はかなり違った見解を示しているのである。智旭は「綱要」を使うところもあり(5)、また「大綱」を使うところもある(6)。しかしながらそれらは決して「綱宗」の意味ではない。彼が綱宗という言葉を使ったところは色々あるが、暫く例として次の八点の資料を挙げで見たいと思う。

以上八点の資料を調べてみると、一から四までの例は禅道綱宗であり、五番目は天台の教観綱宗、六番目は律学綱宗、七番目は浄土綱宗、八番目はそれらの総結とする禅・教・律・浄土の綱宗といわれている。これらの綱宗という名称は、一体どのような意味をもっているのであろうか。第八番の資料には、「心法」という語をはっきりと示しているが。この心法とは、勿論智旭の現前一念心であるというべきものである。この一念心の心法が「宗」の内容的な意味になることについては、すでに明確であると思われる。すなわち、これは『宗鏡録』の「宗」という義を継承するところで(7)、「宗鏡」二字の出典は、『楞伽経』と『楞厳経』から取意したものである。なぜかというと、『宗鏡録』巻第五十七には、明らかに次のように依拠する所を述べている。

上來所引二識・三識・八識・九識・十一識、不出一心宗。所以楞伽経云、一切諸度門、佛心為第一。又云、佛語心為宗、無門為法門。(大正四八巻七四二頁C)

このうち、「一心」とは、主として如来蔵心である。如来蔵心は仏心・衆生心の本であり、一切の経典聖語はすべてこの心法から流れ、また経典聖語によってこの心法を証悟するわけで、聖なる仏も、凡夫である衆生も、いずれもこの心法を中心としている(8)。これが「宗」ということである。「仏語心為宗」という表現は、