明末中國佛教の研究 41

彼らの姓名は、みな漢字をもって表現され、また死ぬまで中国において伝教活動をした。彼らの著作量を数えると、十四種以上に及ぶものが七人あり、五種以上のものは十三人に達している。彼らの伝教地域は、広州と澳門を発足の中心とし、北京・南京・上海・杭州・南昌・開封・福州・山西などの地方で大いに活躍した。ことに徐光啓の故郷上海および楊廷筠の故郷杭州は、その時代の天主教教師たちの主要舞台になっており、教堂を建築したり、印刷物を出版したりしている。

王室の天主教信仰


これら外国からきた天主教の伝教師たちは、自身官職をのぞむことはなかったが、伝教の目的のためにやむを得ず官職につくものが多かった。こうした傾向は、明末の朱氏朝廷並びに清初の満洲族の政府が、彼等をほとんど官僚と役人にしたことに顕著であり、そのために、その信者の中に、多数の王公百官を数えるに至った。黄伯禄氏の『正教奉褒』の中に記載されている明末のみの状態についていえば、宗室に十四人、内官四十人、顕宦十四人、貢士十人、挙子十一人、秀士三百人を越えると伝えている。

王室の中において、天主教の信仰を有名にしたのは、永明王の太妃王氏であり、永暦四年(一六五〇)広西の梧州で、『致耶穌会総統書』をローマ教皇にとどけたことで、世によく知られている。またイタリア人の伝教師である畢方済(一五八二ー一六四九)は、南明の福王(一六四四ー一六四五)、唐王(一六四五ー一六四六)、永明王(一六四七ー一六六一)の三朝にわたり、要職に任命されたことが知られている(4)。ドイツ人の湯若望(一五九一ー一六六六)は、崇禎六年(一六三三)に、宮中行化の結果、一百四十人の多数が天主教の洗礼を受けるに至り、その中には王妃三人、中官一人があり、そのうえ太監と宮女が礼拝をするために、宮中に二カ所の聖堂をたてたと伝えられている。なお、この湯若望は、明朝から清朝にかわった後に、順治二年(一六四五)に、欽天監監正という暦官職に任命せられ、