明末中國佛教の研究 42

また兼ねて太常寺卿の銜を与えられており、順治十二年(一六五八)には、通政使を授けられて、一品の禄に晉封された(5)。

1 徐宗沢編著の『明清間耶穌会士訳著提要』一四頁。

2 梁啓超著の『中国近三百年学術史』参照。

3 これは『明清間耶穌会士訳著提要』三四九ー三八五頁の資料によるものである。

4 『明清間耶穌会士訳書提要』三六七頁参照。

5 同上書三七二頁参照。

三 明末における天主教と仏教の反目

対天主教反発運動


ところで明末と清初において、以上のごとく、漸々に発展の途をたどる天主教に対して反発する人も少なくなかった、『明史』巻第三百二十六の「外国伝」第七には、利瑪竇が中国に入ってから、その教徒と教師の来華ほますます多くなり、王豊粛という教師は(1)、南京において専ら天主教をもって民衆を蠱惑するので、礼部郎中の徐如珂が駆斥を唱議し、万暦四十四年(一六一六)には、徐如珂と南京礼部侍郎の沈㴶および給事中の晏文輝等が合疏をして、その邪説を排斥したことが述べられている。次に、給事中の余懋孳が、神宗帝に進諌した内容を掲げて見よう。

自利瑪竇東來、而中國復有天主之教、乃留都王豐肅・陽瑪諾等、煽惑群衆、不下萬人。朔望朝拜、動以千計。夫通番左道、並有禁令、公然夜聚暁散、一如白蓮・無為諸教。且往來壕境、與澳中諸番通謀、而所司不為遣斥、國家禁令安在。(臺灣開明書店鋳版七九二二頁C)