明末中國佛教の研究 414

『大乗止観』の撰述者である南岳慧思禅師である(4)から、智旭晩年の頃は天台宗の呼称に「臺衡」(5)という名称を使うのである。なぜなら智旭をして言わしむれば『大乗止観』こそ、性相融会の精神を現わしているからである。そのため智旭は次のような論点を陳述している。

欲善唯識玄關、須善臺衡宗旨、欲得臺衡心髄、須從唯識入門。…(中略)…鳴呼、臺衡心法、不明久矣。蓋彼不知智者、浄名疏、純引天親釋義故也。疏流高麗、莫釋世疑。而南嶽大乗止觀、亦約八識、辯修証門。正謂捨現前王所、別無所觀之境、所觀旣無、能觀安寄。辯境方可修行止觀、是臺衡真正血脈、不同他宗泛論玄微。法爾之法、道不可離。彼拒法相於山外、不知會百川歸大海者、誤也。(宗論二ノ五巻一三ー一四頁)

これによれば、智旭は南嶽慧思には勿論のこと、天台智者大師の『維摩経疏』にも世親の唯識思想の引用があると見做している。しかし、当時の天台学者はこのことを全く知らずして勝手に唯識法相を山外に拒否していた。その上『大乗止観』が八識に約して止観修証の所観境を分弁することに対しても、わからずにいることは、大変誤ったことであると嘆息しているのである。このために智旭は唯識思想を重視するとともに、彼の『法華会義』に唯識学者としての世親の著である『法華経論』をしばしば引用しているのである。

1 宗論二ノ五巻一三ー一四頁

2 大正一〇巻一〇二頁B

3 大正四六巻五四頁A

4 日本の学界では『大乗止観』の撰述者の問題について種々の論議があるが、智旭はこれを南嶽慧思の真撰と見做している。

5 「臺衡」とは智者大師の天台山および慧思禅師の南嶽衡山を指す。