明末中國佛教の研究 418

五 禅・教・律・密の浄土会帰


これについては、三十代の著作である「示真学」の法語(1)に、すでにその原初の形態を見てきたのであるが、それは僅かに天台・賢首・慈恩の三派の教学を『宗鏡録』に合流して、浄土信仰に帰着するだけでのことである。そして、この思想が一応まとまるのは、智旭五十六歳の九月に完成した『法海観瀾」の序文(2)の中に見える。この序にまず中峰明本(一二六三ー一三二三)のいう「密咒は春の如く、教乗は夏の如く、南山律宗は秋の如く、禅宗は冬の如し」の説に反論して、智旭はこれらを改めて、「達磨・六祖の禅と台宗の円妙止観は共に秋の如きなり、密教は冬の如きなり、浄土とは三徳秘蔵・常楽我浄・究竟安隠のところなりと言うべし、天台・賢首・慈恩の諸教は夏の如きなり、律は春の如きなりと言うベきである」と主張した。結局、智旭にとって浄土はこれら春・夏・秋・冬の律・教・禅・密を一括して最後の帰結点になるのである。

智旭の浄土思想に関しては、すでに本章第三節に述べたが、彼の四種浄土の説は、天台智者大師からの引用であり、「自性弥陀、唯心浄土」の思想もこれに含まれているが(3)、智旭は四種浄土が、我々の現前一念介爾の心を離れるものではないとしているのである(4)。このような「唯心浄土」、あるいは「心卽浄土」という説は善導(六一三ー六八一)の「指方立相」という浄土観(5)とかなり相違している。この「自性弥陀、唯心浄土」の思想源流は、天台大師の『観経疏』および『維摩経』であるが、具体的に表現されたのは、雲棲祩宏の『弥陀疏鈔』である(6)ため、智旭の浄土関係の私淑者は、祩宏であるといわれている(7)。