明末中國佛教の研究 43


これによって知られるように、当時の南京一地で、王豊粛と陽瑪諾(一五七四ー一一五九)等の外国教師の宣伝によって、一万人ほどの信者ができたのは、確かに保守派の性質を示す中国人として驚くべきことであった。ことに明代においては、仏教の弥勒信仰に依存する白蓮教と道教の老子思想を主とする無為教が、時に政治叛乱を起こして、政府に禁止された経緯がある。そこで、天主教の活躍に対しても、政治叛乱のおそれがあるとして、取締る議案を神宗帝に奏疏したのである。それ故、王豊粛・陽瑪諾・謝務禄(2)・龐廸我・熊三抜などの天主教師を逮捕して、澳門に移送したのちに、徐光啓・李之藻・楊廷筠の営救によって、早くもこの事件を平息したという(3)。

なお、清初の康熙三年(一六六四)には輔政楊光先の政策によって、湯若望・利類思・郭納爵・藩国光等二十五人の外国教師を逮捕して、広州へ移送したことがある(4)。こうした救難に対する天主教の書類の記録は、いずれも「僧道嫉之、興起教難」(5)と述べ、仏教と道教に怨みをもっているが、実際には明末・清初の仏教の政治権力は、さほどに強力なものではなく、それ故、天主教師の仏教と道教に借禍する目的は、天主教徒の反仏と反道の心理傾向を高めるにあったのではないだろうか。天主教の利瑪竇をはじめ、徐光啓・楊廷筠等の有名人たちは、公然と反仏論の著作をしている。

天主教側の排仏論


明末までに限っていえば、それまで中国に伝来した景教・一賜楽業教・也里可温教のどの場合も、中国の文化の核心にまでは影響しなかったといえる。その原因は、多分それらの経典を漢文に翻訳したものが極く少数であると同時に、それらの教師たちは、中国の文化思想を学び、さらに中国儒教思想を通じて、彼らの宗教教理を宣揚するまでには至らなかったからである。

しかし、明末に来華した天主教の教師たちは、いずれもその西洋宗教の神学を中心として、他に哲学、数学、