明末中國佛教の研究 45

原教・天堂・地獄・世尊・殺戒・盗戒・淫戒・巧言綺語戒・観世音・輪廻・奉斎・念誦・無量寿・大神通・三世仏・三十三天・三千大千世界・仏化身・四大仮合・大事因縁・閻羅断獄・度世誓願・空苦禅観・出家・四恩・梵音字・祈祷懺悔・夢幻泡影・律教宗など仏教の専用名詞ばかりを用いた短篇の論集であり、天主教の教義に立脚して、明末仏教のありかたに広汎な反論を加えたものである。

仏教側の反駁運動


ところで上述の楊廷筠の故郷は杭州、雲棲祩宏(一五三五ー一六一五)の活動の拠点でもあったので、天主教からの排仏運動を受けた仏教側からの反駁の運動も盛んに起こった。すなわち、杭州積翠寺の唯一普潤(?ー一六四七)は『誅左集』を作り、浙江天童寺の密雲円悟(一五六六ー一六四二)は『弁天三説』を書き、雲棲祩宏は「天説」の四篇を著わし、藕益智旭(一五九九ー一六五五)は「天学初徴」と「天学再徴」を作った。また居士の黄貞には『不忍不言』がある。この五人の反駁の書物が著わされた場所は、ほとんどみな杭州の周辺であった。これら五人の中には、天主教徒の徐光啓・楊廷筠・李之藻。利瑪竇・湯若望などに比べて、政治的影響力を持った人物は一人もいない。こうした仏教側の動きに対する天主教側の怨恨は、万暦四十四年の南京王豊粛取締事件が起こった時に、一気に釈道二教に転嫁されることとなった。すなわち、当時の反天主教の政策を行なった政府官吏、徐如珂・沈灌・晏文輝等は、何れも仏教の信者ではなかったが、天主教の徐光啓は頑固な態度をもって、その責任を仏教と道教に禍を転嫁して、神宗帝に上奏した。その上奏は黄伯禄の『正教奉褒』の中に、次のように原文のまま抄録されている。

諸陪臣之言、與儒教相合、與釋老相左、釋道之流、咸共憤嫉。是以、謗害中傷。乞命諸陪臣、與有名僧道、互相辨駁、推勘窮盡、務求歸一。仍令儒學之臣、共論定之。

この中で「諸陪臣」とは、徐光啓・楊廷筠・李之藻等の天主教の信者である士大夫の自称で、彼等が天主教の教義について語るところは、儒教の思想と相違していないが、仏教並びに老子の道教思想とは異なっているので、