仏教と道教の怨謗を招いて南京の天主教取締事件が起こったのであると強調している。それ故、彼等の希望として神宗帝に訴えるのは、有名の僧侶と道士を相手取って、論弁によって対決したいと、挑戦の申し入れをしたのである。残念ながらその当時の仏教界の有名僧、真可と祩宏はすでに入滅し、徳清は政治迫害を受けて、遠く盧山の五峰山下に庵居していた。そして、智旭はまだ十八歳の在家少年であり、臨済宗の代表人物である密雲円悟は、その年五十歳であったが、徐光啓等の天主教徒との論弁には応じなかったのである。
ただし、三教同源論を提唱する明末の高僧に対して、このように天主教から反仏論が打ち出されたことは、仏教界に対し実に嵐のような衝戟を与えた。智旭の『闢邪集』の序に反映した当時の仏教界の状況には、「諸釈子群起而詬之」といい、不安感が普遍的に仏教界に捲き起こったのは確実なことであろう。漢代から明末に至るまで、仏教に対する論争の相手は、終始、儒教と道教であったが、明末になって、仏教ヘの挑戦は、天主教にかわった。それは未経験の相手であった。したがって、仏教界の人々は、自己防衛のために、立ち上がって弁護および反駁の文章を作った。それが先に掲げた五人であり、筆者はその中で、ただ雲棲祩宏と藕益智旭との二人の作品を見たにすぎない。なお智旭の『闢邪集』の序に、『聖朝佐闢』という反天主教の書物が見えるが、その著者および内容について智旭は説明していない。あるいは、これは仏教者の作品ではないかも知れないのでここでは追究することをしない。
1 王豊粛はすなわちイタリア人の高一志と同一人物である。
2 謝務録はすなわちポルトガル人の曽徳昭と同一人物である。
3 この事件を平息した後に、王氏は高一志に、謝務録は曽徳昭に、姓名を変え、あらためて中国の内地へ帰 り、