利瑪竇の逝世年は万暦三十八年であるからこの祩宏の反発に対しては、利瑪竇は知らないはずであるが、今日、『四庫全書』の子部雑家類に収存されている利瑪竇の『辯学遺牘』の中には、雲棲祩宏の「天説」四篇を駁斥する書牘が見られる。いうまでもなく、これは明末天主教徒の偽作であろう(1)。しかしこの資料によって、祩宏の『天説』の反駁対象は利瑪竇の『天主実義』であったに違いないと推定し得るのである。
智旭の闢邪集
智旭の『闢邪集』の刻印年代は、その序によって判明している。すなわち、毅宗帝の崇禎十六年(一六四三)、智旭四十五歳の時である(2)。彼が目にした天主教の書籍は、その『闢邪集』にあらわれている左の四種である。
- 『天主聖像略説』一巻、羅如望著、万暦三十七年(一六〇九)刻印。
- 『天主聖教約言』、 蘇如望著、万暦二十九年(一六〇一)韶州初版、万暦三十八年(一六一〇)南昌重刊、万暦三十九年、湖州再刊。
- 『三山論学記』一巻、艾儒略著、明喜宗天啓五年(一六二五)杭州初版、清聖祖康煕三十三年(一六九四)北京再刊。
- 『西来意』。この書名については、天主教の文献には見えていない。しかし『三山論学記』の作者艾儒略には、天啓三年(一六二三)に杭州で印刷した『西学凡』一巻および『西方問答』二巻の作がある。この艾儒略は当時の信者達から、「西来孔子」と尊称されたので、智旭に見られた『西来意』とは、多分この艾儒略の作品だと考えることができよう。
以上四種の天主教の書物は、新・旧約のような聖書ではなく、儒教調和と仏教反対の宣伝用の著書である。